Gallery of the Week-Feb.99

(1999/02/26)



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薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち
そごう美術館 横浜

今回はちょっと毛色を変えて、日本美術史上最大の「旦那」、薩摩治郎八氏の足跡をたどる回顧展。いやあ、昔の豪快な人は本当にスケールがデカいですな。基本的に文化とかアートとかは、役に立ったり生産的だったりしないからこそ、文化やアートたりうるワケだが、このヒトは本当に文化人ですよ。人生そのものがアート作品かもしれない。思いつくだけなら、ある程度の人ならできるかもしれないが、本当にやっちゃうというのはスゴい。バーストのグランドスラムなんて可愛いモンだ(笑)。
さて、今回の展覧会の中心となっている「仏蘭西日本美術家協会展」は、当時パリに在住していたというだけで、いろいろなバックグラウンドを持ったアーティストが混然となって出品したものだ。それだけに参加者の作品を今見ると、各人の可能性と限界というのがはっきり見えてきて面白い。それなりに名前が残っている人は、好き嫌いは別にしてやはり強烈な個性があるし、リアルタイムはさておき、今は美術史の中に名前が埋もれてしまっている人は、器用は器用だがそれで終わってしまっている。
特に「西洋画法を勉強に」いった人々に、その感が強い。逆に日本画をベースにしているヒトのほうが、個性ははっきりしている。そういう意味では、時間というものはやはり強烈に表面の取り繕いを風化させ、本質をあらわにしてゆくモノなのだろう。スマートにこなすより、自分に忠実なことがアートには大事。やっぱりこれですよ。


2/3w
大辻清司 写真実験室
国立近代美術館フィルムセンター 京橋

1940年代から写真家のみならず、写真の論客・教育者としても活躍してきた大辻清司氏の歩みを振り返る展覧会。雑誌等のカメラマンとしても活躍してきたヒトだけに、その画像は常にシャープでクリアな、文字通りの意味としてのカメラマンらしい描写を見失わない。このトーンはアメリカの写真家を思わせ、トーンそのものに個性を投射するタイプの多い日本の写真家の中では異彩を放っている。
しかし、それだけに彼の眼差しが、くっきりと写真作品の中に定着されられている。この視線こそが、これらの写真を作品として成り立たせているともいえる。過剰なまでに写真という再現技術にこだわるアメリカのカメラマンの作品が、ともすると「そこに対象物がある」という以上の何物も感じさせず、結果、カメラマンたり得ても、フォトグラファーという視線を見出せないのと好対照だ。
そのストレートな視線は、外在的な景色、客観的なカタチの正確な記録以上に、彼の意識を記録する。それがこれだけ積み重ねられると、それが意識の産物、いわば確信犯としての表現形式だったことに気付く。彼以降のビッグネームになっている写真家でも、商業写真としての枠組みの中にしか自分の視線を置かない人があまりに多いことと考えあわせても、やはり無から自分で方法論を作り上げた先人は強い、とつくづく感じさせてくれる。


2/2w
1999年PASSAGE展
ワタリウム美術館 北青山

現代アートのビッグネーム達の作品をコンピレーションした企画展。それぞれ自分の世界を持っているアーチストたちが、この小さい会場で一作づつ出展ということで、また違ったものが見えてくる。それは現代美術というものが多かれ少なかれ、「近代合理主義に基づく工業化社会」と「近代国家の教育体系に組み込まれたエスタブリッシュ・アート」という、現代社会のステータスに対する「アンチテーゼ」としての宿命を背負ってしまっているということ。数多い現代アートの中には、もろこの主張だけで作られている作品もある。しかし、問題意識がある種の創作意欲の触発になったとか、現状への不満・警鐘が作品のモチベーションになったレベルまで拡げれば、程度の差こそあれ、度の作品にもこの意識が見え隠れするといってもいいだろう。
それはそれで20世紀においては意味があったこととは思うが、これからはそれだけでが辛い。冷戦の時代は、何でも冷戦構造のせいにできたのと同様、近代合理主義が価値を持っていた間は、それを批判し敵に回すだけで、確たる自分らしい主張が可能だった。だがこれからは、百人百様のバラバラの価値観しかありえない。そういう時代において、アートたりうるには、本当に自分をすり減らさんばかりに、自分自身を語らなくてはいけなくなる。
それが元来のアートといえば、実にその通りなのだが。もちろん、表面的な主張より、そういう内面的なメッセージが表に出ているアーチスト/作品もたくさんある。しか、どちらかというと、現代アートファンには、表層的な主張性にばかり目が行ってしまう人も多い気がするだけに、大いに興味引かれるところだ。語るコトバ以上に、語りたい心を持っているアーティストたちには、これから一層期待したい。


2/1w
奈良美智展 -Walking alone-
ザ・ギンザ・アートスペース 銀座

今回は病み上がりでもあり、時間もないので、近場狙いで。奈良美智は、名前と作風こそ知ってはいたものの、ぼくとしては余りしっかりした印象はもってはいなかった。限られたイメージからすると、何も考えていないか、余程考えが先走っているのだろうか、どちらかだろうとは思っていた。実際じっくり見るとわかるが、考えすぎのようだ。というより、カタチはカタチでアレが好きなんだと思うし、なんとかその中にいいたいことを押し込めてしまえ、という強引な感じがした。創世記の手塚治虫のストーリーと画面の乖離といったらいいすぎだろうか。創っている作品より、いいたいことのほうが先走ってしまって、結果カタチはそれ自体の中で自己完結せざるを得なくなっているというか。
カタチの面白さが気に入ればそれでいいし、メッセージが伝わればめっけモノ、という程度の軽いキモチでいいのかもしれないが、なんか切れ味はよくない。もっともそこが作者の狙い目なのかもしれないけれど。
しかし、あの犬はなぜか新幹線を思わせる。それも0系と700系がすれ違っているような(笑)。そういえば、ギャラリーへ向かう途中、久々に0系の「こだま号」をみた。あの丸い鼻ももうすぐ見納めかと思うと、なつかしくもなる。高度成長も20世紀も、もう歴史なのかと思うと、どうにも精神的に老け込んだ気になってしまう。こまったものだ。


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