Gallery of the Week-Mar.99

(1999/03/19)



3/3・4w(その2)
アクションズ 1949-1979 行為がアートになるとき
東京都現代美術館 木場
東京都現代美術館二連発の二つ目は、キャンバスや美術館を飛び出してしまった、20世紀後半のアートの流れを振り返る展覧会。こりゃいいよ。だってのっけがフォンタナだもん(笑)。まだ50年代現役でやってたんだね。ここに展示された作品、今から見れば、考えオチみたいのとか、偉大なるスカ習作といわざるを得ない作品もあるけど、そういう見方をしちゃつまんないよね。それを含めてこの手の作品って、その時その時の時代感覚を含めて、作者の心の動きがどれだけ表現できたかにかかってるもんね。幸い、60年代70年代については、ぼくもそれなりにリアルタイムでの時代感覚があるから、作品に込められたその辺のもやもやは何となくわかるから。
そういう意味じゃ60年代って、時代そのものが習作っていう感じだしね。誰でも、何をやるにしても、すべて前人未到の分野ばかりで、手法そのものから取り組んでいかなくてはいけなかった時代だから。その試行錯誤と、偉大なる浪費、死屍累々の山があってこそ、その後の表現手法が生まれてきたことを忘れてはいけない。偉大な空振りもまた、瞬間に生きた表現者たちの立派な生きざまだと思う。とはいうものの、行為性もリアルタイム性も感じられない作品も、まま混じっているのも確かだけど。その辺は共同企画している欧米の美術館の感覚なのかな。
やっぱりアートの本質は、作品としての完成度や、表現手法のレベルなんてモノは飛び越えて、自分の心の中にあるこの「表現したいゾー」っていうモヤモヤを、どう伝えるかにある。これって、アートに限らずすべての表現の原点だよね。音楽とかにも通じる。というよりある種の音楽をモチーフにしたり、音楽を感じさせたりする作品が多かったことからもわかるけど、音楽こそホントは、こういうリアルタイム表現の骨頂だよ。
そう考えてゆくと、デジタル化、ネットワーク化の進展と共に問題になっている「複製芸術としての音楽の曲がり角」も、大したコトじゃないとわかる。音楽の主流が「複製芸術」「商業芸術」になっちゃったのって、レコードの発明以降、高々一世紀ちょっとのこと。それは、近代社会固有の歪みだよね。音楽の本質はそんなモノじゃない。よく考えれば、違法コピーで困るのは自ら表現のできない周辺権者であって、音楽表現者なら常にスリリングなリアルタイムパフォーマンスをし続けていれば、なんら困らない。妙なところで、妙な勇気がわいてくる。どちらかというと、音楽とか演劇とか、リアルタイム系の表現をやっている人にこそみてもらいたい展示だ。キモチか形式か、どっちをとるべきか悩みがちなモヤモヤが晴れるよ(笑)。



3/3・4w(その1)
-MOTアニュアル1999- ひそやかなラディカリズム
東京都現代美術館 木場
東京都現代美術館の企画展を二発まとめて見てきたので、今回は二週分まとめて一挙掲載。その一つ目は、若手作家による競作展「ひそやかなラディカリズム」。確かに手法もテーマもバラバラだし、個々の作家レベルでの評価もいろいろあるとは思う。明らかに考えてることが逆の方向をむいているヒトも、同居している。でも全体としては確かに方向を感じる。
最近の若者は自分の殻にこもって小さくまとまりがちだといわれる。しかしことアートにおいては、小さくなってしまうのはさておき、自分の殻にこもってじっと自分の内面を見つめるのは決して悪いことではない。というより、変に社会性とか、客観性とかいう逃げ道があると、主張のための主張となりがちで、なんか素直さが減ってマズい。そういう流れがいい方に出ているアーティストが出てきているなという感じが伝わってくる。
ちょうどその昔、べ平連とかがフォーク集会とかでやっていた、反戦フォークとかプロテストフォークとか、メッセージが先走っていた時代。その頃のフォークは、それなりに「いいたいことをいうぞ」というパワーはあったものの、政治に逃げられる分、個々人の心に語るモノには限界があった。そこに第二世代として、吉田拓郎氏や、井上陽水氏が現れ、手法はにているけど、もっと個人的な心をテーマとしたフォークを作った。これではじめてアジテーションではなく、音楽として残るフォークが生まれた。それと似た文脈といえるだろうか。
個人的には、高柳恵里、河田政樹両氏の作品が面白かった。形式的には部屋全部を使っての空間インスタレーションとしてのプレゼンテーションではないのに、空間そのものが結果として語っているモノがびっくりするほど多い。柔よく剛を制するというか、主張がほんわかしてる分、空間全体が活きている感じ。来世紀に向かっての表現の方向性の一つとしての「私化」というのは、確かにあると思う。それをどう表現に高めてゆくかは、まだこれからの課題と思うけど。



3/2w
-神品とよばれたやきもの- 宋磁展
東武美術館 池袋
中国陶磁器のなかでも特に人気の高い、北宋・南宋を中心とする10世紀から13世紀の磁器を集めた展覧会。その絞り込んだテーマに、これでもかというぐらいの物量で迫る展示は、大いに充実している。このぐらい揃っていると、工芸美術品としての鑑賞もよし、中国の歴史の証人として見てもよし、いろいろな磁器技法の比較にもよしといった具合で、誰しも自分なりの楽しみ方ができるだろう。大阪市立東洋陶磁博物館の所蔵品が核になっているが、本当に世界各国からよく集めたものだ。
やはり宋代は、それまでの皇帝と官僚を中心とした律令制の文化から、裕福な商人など都市を中心とした市民文化が最初に起こった時代として、中国文化史のなかでも特異な転換点となっている。宮廷文化が、どちらかというとトップダウンで普及し、時代ごとの色がはっきりしているのに対し、市民文化はまさに多種多様、いろいろなテイストが同時発生的にあらわれ、その華を競うところが特徴だ。
特に、この時代の時期はあくまでも商品経済の発展を前提に、商品として大量生産され、全国に流通されることを目的として作られたモノだ。その結果日本や韓国にさえ伝来した。商品ということは、その時代なりのマーケティングを生かして作られたわけで、お客さんを引きつけるためにはいろいろな改良をし、アイディアを盛り込んでいったはずだ。その結果、たとえば同じ12世紀であっても、いろいろな技法が生まれ、各地域ごとに各々の道でその技法を深めているあとがありありと見てとれる。そういう意味で中国に興味のある人なら、「美術」という枕詞を外しても見に行く価値はあるだろう。



3/1w
このアートで元気になる -エイブルアート99-
東京都美術館 上野

ぼくのお得意の、さまざまな障害を持つアーチストによる作品の大規模な展覧会。東京都美術館のイベントコーナー、第六ブロックをすべて使っての展示は、さすがにスケールがある。が、なんだこれは。ちっとも純粋ではないではないか。煩悩にあふれているぞ。はっきりいって、普通のアートとして評価すべき作品が多いし、それできちんと理解し、評価できる作品の方が多い。別に、あえて「障害」を表に出す必要はないと思うし、「市井のアマチュアアーティストの力作」でいいではないか。場所も公募展のメッカ、都美館だし。
しかしよく考えてみれば、障害を持っているから心が清く純粋だというのは、健常者の思い込みかもしれない。障害があったってオトナはオトナだ。分別にあふれている人も多い。その一方で、物理的には健常者でも心がこどもの人はちゃんといる、ということか。みんな、ぼくらなんかよりずっとまっとうな社会人ではないか。なにか期待しすぎているのだろうか。ぼくからすると、変にマトモすぎて決して元気にはなれなかった。これならひろみ教御教祖様のほうが、よほど純粋で天然だし元気になる(笑)。
小学生の絵とか習字とかの作品展でも、本当にこっちがいいと思うのはなかなか代表で展示されないし、つまらなくて大人ウケ、先生ウケのいいのだけが展示される。でも、全員展示とかになると、いいのが出てくるということもよくある。この展示もきっと、社会常識というフィルターによって規制がかかっちゃっているのだと思う。きっとそうだ。そう思いたい。とんでもなく天然な発想をしてる人もきっといるはずだ。そういう人の作品がいっぱいあったほうが、ぼくはよほど元気になったのになあ。


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