Gallery of the Week-Jun.99

(1999/06/25)



6/4w
ほとばしる黒、寂寥の赤。横山操展
国立近代美術館 竹橋
敗戦直後というこの時代の日本画は、守るべき形式自体を失っていたともいえる状況だった分、そのアイデンティティーを取り戻すためにあらゆる可能性を試していた感がある。結果何でもありというか、アーティストにパワーさえあれば、とんでもない強力な作品が出てくるチャンスも多い。はじめに手法ありきでしか作品を創れない作家も多いが、そういう作品は概してちまちまとしたモノになってしまう。その反面イメージや構想が大きいアーティストの場合は、手法自体が枷になってしまうことも多いからだ。
1950年代の作品は、確かに物理的スケールも大きいのだが、明らかに構想が画面を突き抜けてしまっている感じがするほど、あふれるイメージを画面に押し込んでいる。ある面では具象なのだが、何が描いてあるかなんてことはどうでもよくなるような押し出しの強さだ。これは見ているほうからすると圧倒的な存在感になるが、本人からすると、若気の至りでパンツ脱いじゃったのをくりかえし見せられるような感があるかもしれない。その意味では初期の作品の多くを処分してしまったことも、妙にうなずける。
しかし、このカタチがあるモノを描いても、画面から出てくるオーラはそれを越えているという世界は、その後のよりデリケートな表現になっても受け継がれる。60年代に入ってからのより緻密な作品は、ほとんどファンタジー画を思わせる。いや、あるモノを描きながら、そこにないモノを表現しているということで、ファンタジーイラストが、その後手法としてマネしたまでのことなのだろうが。
特別展を抜けると常設展になってるんだけど、そこでハタと気付く。けっきょく、こういう勢いのあるアーティストって、一人で美術史を再構成しちゃうのね。手法としていろんなことを試しては、自分のイメージを語りきれずに次にトライする。これをくりかえしているウチに、オーソドックスのように見えても、いちばん表現のアローワンスの大きい所に行き着くって感じで。音楽でいえば、アドリブはブルースにはじまり、ブルースに終わるってところでしょうかねぇ。



6/3w
荒木経惟 センチメンタルな写真、人生
東京都現代美術館 木場
連発二発目は、会社の先輩(笑)、アラーキー師匠の公立美術館初の個展。チケット販売窓口の貼紙に曰く、「ヌード作品が含まれておりますので、児童・生徒の鑑賞は保護者の指導の元で」とのこと。なるほど公立美術館だ、と感心。展示は、今までの主要な連作テーマの中から選び出した作品を、年代を越えて再構成して見せる。のだがその手法が尋常でない。とにかくこれまた、これでもかこれでもかの、怒涛のがぶり寄り。見るものはまさに作品の渦の中に投げ込まれることとなる。
個々の作品は、じっくり見てゆけばどれも充分なパワーを持っている。それが大小取り混ぜ千以上ぶちまけられている。ぼくの場合、80年代冒頭から師匠の作品をチェックしていたので、初出がかなりマイナーなものも含めて、ほとんどどこかで見たことのある作品だ。そういう意味では、一枚一枚見ても、その時代や作品の背負っている世界を思い出して大いに楽しめるはずだ。だが、それは見方としては違っている。それでは、米粒を一粒一粒食べるようなものだ。茶漬けをかっ喰らうように、ここにある作品全部を、滝に打たれるように一気に味わうのが本筋だろう。
そうやって身をまかすと違うものが見えてくる。なんというか、哲学だなこりゃ。個別の表現じゃないよ。個々の作品をコラージュして、でっかい一つのコラージュのインスタレーションを作ったようなモノ。こりゃ写真展じゃない。パフォーマンスイベントだ。パフォーマンスでもお祭りでも、ヤケになってドッカーンといく感じが堪えられない魅力だが、それににているような感じ。こりゃこれでスゴいよ。さすが。
しかし、通常の現代美術館だとほとんど貸切り状態で、一室一人で見れるような時間に行ったのに、このヒトの多さはなんだ。もちろん草間さんのほうも人は多かったのだが、アラーキー師匠は混んでいる。おまけにあらゆる老若男女、外国のヒトも含めてゾロゾロいる。これは別の意味でスゴいわ。ヒトを呼び寄せるスキャンダラスな何かがあるんだろうね。



6/2w
草間彌生 ニューヨーク/東京
東京都現代美術館 木場
今回は久々の二週分連発。木場公園は東京都現代美術館で開かれている、日本の代表的な現代アーティスト二人の個展。まずは、スペースも料金もキャリアも格上の(笑)草間彌生さんから。個々の作品の展示や、あるテーマに沿った連作の展示会はしばしば行われ、なじみがあるが、今回はそのキャリアを俯瞰的に眺める企画。特に、現代美術館独自の企画として展示に付け加えられた、渡米以前の敗戦直後から昭和20年代の作品は、いろいろな意味でインパクトがあった。
確かに昭和20年代のアバンギャルド的な作品もあるが、それ以上に、1960年代的だったり、1970年代的だったり、もちろん、時代が後からついてくるのだが、周りの流れを越えちゃってるものが作品の中に潜んでいる。基本的に時代とは関係なところに超然と存在しているのだ。50年代の習作に加筆して60年代に作品として発表されたり、世の中が「サイケ」に染まる前に、サイケな文脈が作品中にでてきたり、その枚挙にはいとまがない。
現代アーティストには、メッセージと饒舌さのアンバランスはつきものだが、その多くは、コミュニケートしたいメッセージの多様さに表現がついてこないというものだ(その逆で、表現力だけでメッセージのないヒトも多いといえば多いのだが)。その分、今一つ煮え切らない「習作」を積み重ねてゆくこととなりがちだ。多作なアーティストは、概してこの落とし穴に入りがちだが、彼女は全然違う。
一つ一つの作品は、それぞれきっちりと世界ができ上がっていても、常に彼女の心の中のモヤモヤのほうがそれを上回っているかのようだ。それが次の作品の創作へ向かわせる。物理的に巨大な作品も、コンパクトにまとまった作品も、みな作品としての主張にあふれている。そういう作品がこれだけ物量で迫るというのも、強力なモノがある。圧倒的なパワーで、彼女の世界観の中へ引っ張り込んでゆかれるかのようだ。
スゴいヒトだとは思っていたが、それ以上にスゴい。海外では60年代にピークがあったように思われがちだが、それは時代のほうに彼女を理解できるパワーがあったのがその時代だけだったということだろう。パフォーマンスでも知られるが、作品以上にその「存在」がとてつもない。それを感じさせてくれた。



6/1w
TOKYO 60/90 17人の写真家
東京都写真美術館 恵比寿
東京写真月間'99の一環として開かれた、東京をテーマとした作品の展覧会。60年代と90年代という、いろいろな意味で対照的な二つの時代にスポットライトを当て、60年代に活躍した写真家、90年代にスポットライトがあたった写真家、60年代から90年代まで一貫して活躍してきた写真家、この3つの眼で撮られた作品を集めている。
まず思わぬ発見があったのは、時代を越えて街を見つめる眼差しが共通しているところだ。60年代以来一貫して活躍してきた人が、その構図はさておき、視線を一貫して持っていたのは当然としても、90年代に登場してきた写真家も、60年代に活躍していた写真家と共通する視線を持っている。これはもっというと、江戸時代の浮世絵や風俗画にあらわれた、江戸の街への視線とも共通している。それほど、東京/江戸という街の持つ顔が強列ということなのだろう。
次に気がつくのは、あくまでもその視線の共通性を前提としてのことだが、60年代と90年代の人々の表情の違いだ。60年代では、世代や職業を問わず被写体となったすべてのヒトに妙なパワーと活気があふれている。しかし90年代の作品、特に60年代と同じような眼差しから撮られた写真においては、ほとんど精気と活気が感じられない。これは若者ほどはっきりしている。90年代の写真において、たまに妙なオーラを放っている人物を見つけると、それは60年代の若者だったりする。
旧作は有名な作品ばかりではあるが、見ているとその時代その街角の空気がよみがえってくる。そういえば、ぼくもガキなりにその時代を駆けていたんだということを思い出す。それとともに、深層心理のどこかに刻み込まれていた、その時代の躍動感がよみがえってくる。なんか、今の時代感覚をこえてスゴく元気が湧いてくる。「昔のヒトほど、オーラがある」ってのは、もしかするとこういう理由なのかもしれない。そう思った。



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