拝島駅 -1970年春-


1969年の春から1970年の秋にかけての時期は、東京近郊のローカルな線区に残っていた蒸気機関車が次々と廃止され、無煙化されていった時期です。ぼくにとっては、ちょうど中学生になって、自分で意識して鉄道写真を「撮影に行く」ようになった時期と重なっています。ということで、初期に無煙化された路線は、撮影には行けませんでしたが、70年に入ってから無煙化された路線へは、意気揚揚と撮影にいきました。といっても、マトモに鉄道写真を写すのははじめてですから、構図の決め方や、シャッターチャンスのつかみ方など、何度も何度も失敗しながら、試行錯誤で学んだものです。そういう「教室」となったのが、新鶴見-横浜港間のいわゆる「高島貨物線」と、八王子-高麗川間の「八高線」です。この写真は、ごく初期に八高線に撮影に行く「行きがけの駄賃」として、乗り換えの拝島駅で撮影したものです。



当時は中央線沿線に住んでいましたから、拝島駅へは、立川まで中央線、立川から青梅線というのが、一番真っ当な(笑)ルートでしょう。当時の青梅線は、旧型国電の宝庫で、それも「省電」と言うべき戦前型の電車が、バリバリ活躍していました。17m級の車輛も多かったのですが、これは20m級のクハ55。立川行きの最後尾で、相方はクモハ73。このクハ55073号は、ノーシル・ノーヘッダーで、雨どいありの丸妻、という、なかなか優雅な仕様です。車体側面に「闘争ビラ」が目立つところから、ダイヤ改正直前の時期であることがわかります。となると、69年9月か70年3月。後述する理由により、70年春と考証できるのですが、どちらにしろ1969年度の出来事です。


八高線の八王寺方から、キハ17系の3連がやってきました。純血編成だと、これはこれでスマートですね。この当時でも、10系気動車だけで組まれた編成というのは結構珍しく、キハ35やキハ20とのデコボコ編成という方が「キハ17らしい」という印象があります。先頭車のヘッドライトは、すでに「ブタ鼻」になっていますが、旧標準色の塗装や、メンテナンスの状態を見るにつけ、国鉄もまだまだ最悪の状況にまでは落ちこんではいなかった、ということが思い起こされます。電化されている青梅線・五日市線の側と、未電化の八高線の側と、構内が真二つに二分されているのも、妙に潔い感じです。


さて、この時点ではすでにDD51の運用が始まっており、高崎方面行きの貨物の先頭には、高崎1区に新製配置されたばかりの、DD51687号が鎮座しております。とはいうもの、この機関車も闘争ビラがベタベタです。しかしこの時代、労働環境の改善なら「無煙化賛成」でしょうし、機関助士雇用の確保なら「無煙化反対」でしょうし、SLとDLのどちらが敵役だったのでしょうか。それよりも、次位に連結された「ミム100」の方に、よりご関心を持たれる方も多いのではないでしょうか。65キロ制限の黄帯もなつかしく、蒸気機関車が主役だった時代ならではの事業用貨車です。


さて、最後は西武拝島線とD51の並びです。このシリーズの趣旨からすれば、あくまでも主役は西武線で、D51は助演男優賞ですね。クハ1411+クモハ451という、いかにも往年の西武らしい2連が停車中です。両開き3扉、パンケーキ型の全鋼製近代型車体のクモハ451と、戦後製ながら、いわば「最後の省電」とも言える味わいのクハ1411という、どう見てもベスト・カップルとは見えない組合せが「純正」というのですから、西武はマニア心をくすぐります。特に大時代的なクハ1411は、当時から大好きでした。その一方で、駅の構造自体は今も変りませんが、この35年間にそのポジショニングが大きく変り、西武新宿直通の10連が発着するようになりました。一方単機で停車しているのは、高崎1区のD51259号。クルパー、十字形煙室扉ハンドルが、関東のカマらしいいでたちですが、LP405の副灯がないのが珍しいです。実は259号は長らく新小岩にいたカマで、総武線のDL化の進展により、1969年10月に高崎区に転属してきたものです。ということは、多分撮影は、70年の2月末から3月頃と断定できるでしょう。その後このカマは、八高線無煙化の最終日まで高崎にいて、そのまま廃車になりました。


(c)2005 FUJII Yoshihiko


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