撮鉄事始 -1969年12月-


すでにこのコーナーでも作品を取り上げているように、ぼくが鉄道を写真に収めたのは、前回のオリンピックを見に行く記念に初めてカメラ(オリンパス・ペン)を買ってもらった、小学校3年生の秋から。しかしその頃撮ったのは、あくまでも「鉄道が写っている」というカット。「撮り」といえるようになったのは、中学2年の誕生日に35o一眼レフカメラを買ってもらってからのこと。ヨドバシカメラでCanonFTをGETしたその日のことは、今も鮮明に記憶している。場所こそ今のヨドバシカメラ新宿西口店の一部だが、当時はまだ住宅街。その中の昔風の家の玄関先、ちょうど「サザエさん」の家の玄関を想像してもらえばぴったりなのだが、あそこにカウンターがあって、客が注文すると奥から在庫の箱を出してくるという、いかにもバッタ屋という怪しい風情の店だった。親と一緒に行って購入、喜び勇んで帰ってきて誕生日を待った。その年の誕生日は日曜日。入手すると試写したくてたまらなかったが、一週間の我慢の末、次の週末にいよいよ一人で撮影に出掛けた。13日(土)の午後か14日(日)と思われるが、試写は蒸気機関車と決めていたので、家から一番近い八高線の駅、拝島に向かった。



当時は中野に住んでいたので、中央線から青梅線に乗り継ぎ、拝島で降りる。すると、八高線の側線にD51がいるではないか。まだ「撮影に行く」経験が全くないレベルだったのでダイヤを調べる由もなく、とにかく八高線まで行けば何とかなるだろうという初心者らしい無謀な発想。そのワリにはちゃんと蒸気に出会ってしまうんだから、まあ運がいいといえば運がいいのだろう。なんか、こういう結果オーライというか創発的なノリだけで今まで生き延びてきたという気もするが。八高線の上りホームにはDD51の牽引する八王子行きの貨物列車が停車中のため、まずは跨線橋を渡り西武側から撮影。その途中でバックショットをからめた拝島駅の全景を押さえる。彼方には青梅線の旧型国電もチラリと。


ということで晴れてご対面。さすがに線路を横断したのではなく、一旦ラチ外に出て西武線の車止めの向こう側にある草むらを横断して、線路脇に降りて行ったものと思われる。バックには停車中のDD51牽引の貨物列車の姿が。八高線側は架線がないので、都内とは思えない風情が漂っている。カマは高崎第一機関区のD51259号機。今から見れば、十字型の煙室扉ハンドルや皿付クルパー、縁取り付きのバイパス弁や点検穴テンダーの増炭板をはじめ、大宮工場持ちのカマらしいスタイル。隠れた特徴といえる、ランボード脇の配管カバーもきっちり残存している。東北筋から新小岩、そして高崎一区と戦後は一貫して関東圏で活躍してきた経歴にふさわしい外観といえるだろう。


続けてもう一枚。非公式側の型式写真といえそうなカット。子供の頃から機芸出版社の「蒸気機関車スタイルブック」とか食い入るように見ていたので、こういう写真のバランスのとり方は知らないうちに身に付いていたのか、記録写真としてひとまずポイントは押さえられているのでは。まあ、はじめて本格的なカメラを入手して、はじめて「蒸気機関車を撮るぞ」と意識して鉄道写真に挑んだモノなので限界はあるのだが。こういうカットでは、初心者は立ったままで高いアイレベルから撮ってしまいがちだし、素人らしいカットにするにはそういうトリックも使うのだが、ちゃんと腰を落として低いアングルから撮影しているのは素直に良くやったと褒めてあげたいところ。


貨物列車が出発しそうなので、今度はホーム上から撮影しようと再び国鉄のラチ内に戻ってきた。そこでふと目を向けると、貨車の連結面の間からD51のクロスヘッドが丁度見えた。そこで、ちょっと凝ったつもりのカットを一枚。例によって、マセたナマイキなガキだよね。我ながらイヤな奴だ(笑)。写真としての好き嫌いはさておき、60年代末から70年頃の写真らしいテイストは持っているのでは。まあ、中学では写真部とか入っていたし、当時は写真家がトレンディーな存在だったので、カメラ雑誌とか呼んでた写真少年だったのは確かだが。しかし、リバーを前進に入れたまま止まってるなあ。こりゃ。


ということで貨物列車も出発し、晴れて公式側の型式写真も撮れる。八高線のホーム上からの撮影だが、やはり腰を低くして撮影しているので、これは当時すでにちゃんとわかってやっていたものだろう。こうやってみると、大宮スタイルながらLP405の副灯がないというのはかえって新鮮に見えるから不思議。バックには西武拝島線のクハ1411が停車中。正面貫通扉が狭幅なので初期型のようだが、それでも昭和29年製。最後の戦前型国電といってもいいような貫禄。これがノーシルノーヘッダーで両開扉のクモハ451と組んでいたんだから、当時の西武はマニア向けだったよなあ。


ここからは模型ファンらしく、各部分のアップの写真をたくさん撮っているが、さすがに撮るのが難しくて露出やピントが悪いものも多く、この日だけで丸々フィルム2本撮り切っているのだがそれは割愛。そんな中でも、この顔のアップは結構面白い。このアングルが、当時のぼくの立ち位置からの撮影だと思われる。こうやってみると、ドーム前のステップの手すりが類を見ない形態をしているのが目に付く。こういうのは、他に見たことないが、模型化するのが大変そう。汚れている部分も多いが、走行に必要な部分は良く手入れされており、東京都内でも蒸気機関車が日常的に活躍していた時代だったことを感じさせる。


今度はキャブのアップ。からっ風が厳しい冬の北関東だけに、蒸気機関車にしては珍しくキャブの窓ガラスをほぼ締め切っている。窓の向こうにナッパ服の背中が見えるので、機関士は機器の点検中だろうか。すると、機炭間に姿が見えているのは機関助士だろう。ぼくは比較的「登場人物のある鉄道写真」を多く撮ってきたが、やはりそういう人の生活や動きが感じられるシーンが最初から好きだったんだな。模型でも必ず人形を使うのは、その延長上なのであろう。長野工場のオリジナルの製造銘板もキチンと残っている。しかし、41年2月大宮工場の全検表記、S型車警のATS表示は、妙なところに書かれているなあ。


当然、駅の雰囲気を捉えたカットも、この頃から撮っている。まずは、八高線ホーム全体の表情を。4番線には、下りの旅客列車が到着。先頭はキハ17だが、すでにシールドビーム2灯のいわゆる「ブタ鼻」に換装されている。ホーム上には作業衣にヘルメットの職員が待機中。D51259号機の側にたむろする若者たちは、どうみても地元民ではなく、こりゃ多分同業者と思われる。同年代かちょっと上、いずれにしろ中高生のようだ。下町方面とは違い、農村地区だった八高線沿線は治安がいいので、いいカメラを持っているからといってカツアゲに合う心配もなく、皆さんここで練習を積んだものですね。結果論だが、アウトフォーカスの駅名票がいい感じ。


こんどは、青梅線ホームから八高線ホームの上屋がある部分を捉えたカット。立派な待合室の向こう側にD51が佇む情景は、地方の主要駅のような貫禄がある。「村田建設」「さとう」「トラヤハット」「高貴堂眼鏡院(スゴい名前だ)」と並ぶアンドン看板も昭和らしいなつかしいアイテム。手前は、米タンと石灰石の輸送でけっこう列車頻度が高かった青梅線の貨物発着線なので、架線が張られている。それにしても、ヘロヘロの線路。37kgだよなあ、こりゃ。これもまた昭和の国鉄らしい情景。線路が今のように立派になったのは、民営化時にせめてもの贈り物として国鉄末期に無理して改良でからなんだよね。それからでさえ30年経ってしまったけど。

あとがき(今回のみ特別)。
とはいえ、50年近く経って自分の最初の体験を見ると、いろいろ感慨深いものがある。自分は自分だから、その時何を考えていたのか、何をしたかったのか、カットを見れば昨日のようにわかるし、記憶もよみがえる。でもその反面、この50年間で自分がどれだけ進歩したんだろうか。手練手管のテクニックは間違いなく経験を積んだだけの進歩はあるが、自分らしさとか感性とかは、ほとんど変わっていない。若い頃の方が感覚と勢いだけで創作できたんじゃないかという気もする。模型とか、ティーンズの頃にみた景色と世界を、テクニックと金がある分、今再現できるというだけで、それを作りたかったのは10代の頃の自分なのかもしれないし。まあ、ブレない人生を送ってきたということでお許しくださいな。わたしゃアホなんで、永遠の70年代オヤジ。一人孤高でガキのまま、毎年歳だけくっている野郎ですから。



(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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