山手線 原宿駅 -1973年-


ぼくが知っている一番古い原宿は、60年代のハジメ。明治神宮の参道沿いに、閑静な住宅地が広がっており、戦前からの繁華街である新宿と渋谷の間に、緑のブラックホールをなしていました。そんな原宿の街が賑やかになりだしたのは、60年代末ぐらいからでしょうか。今でいう「都市型マンション」が建ちだすと共に、エッジなセレブリティー達が住む街になりました。それと共に、当時のアンダーグラウンドカルチャーのブームにのり、街のイメージもだんだんととんがってきました。交差点角のセントラルアパートが、60年代末のオルタナティブな世界を伝える映画「薔薇の葬列」の舞台になっていたのも、象徴的と言えるでしょう。しかし70年代初期になっても、賑やかなのは表参道、明治通りといった大通り沿いだけの話。一歩脇に入れば、まだまだ閑静な住宅地でした。そんな頃、多分1973年の5月あたりでしょうか、学校帰りに途中下車してちょっと撮ってみたショットがこれらの写真です。一瞬のワリには、なかなかキモなカットを押さえていると思いますので、お楽しみください。



いまや、東京を代表する観光地の一つとなった「原宿」。その中でも、日本だけでなく、アジア各国からのお客さんも集めている「顔」といえるのが竹下通りでしょう。常にヒトの流れが絶えない竹下口前の横断歩道ですが、30年前にはこんなにのどかな時代もあったのでした。竹下通り名物のクレープ屋も、もうでき始めてはいましたが、竹の子族とか、原宿が大ブレイクするまでには、まだ何年も待つ必要がある頃です。それだけでなく、改札口の名前も「坂下口」ですね。初乗り30円の自販機が泣かせますが、その切符の自動販売機の前に並ぶ人たちのファッションも、時代を感じさせます。おまけに、この写真の構図自体が70年代にハヤったスナップショットっぽい。ホームに停車中の、冷房のない、ユニット窓でもない、原型103系のサイドビューには、グッとくるヒトもけっこういるのではないでしょうか。


山手貨物の内回線には、珍しく165系がやってきました。団体臨でしょうか。当時は武蔵野線が開通したとはいえ、山手貨物線はまだまだ「貨物線」で、旅客扱いをする列車はたまに臨時が通るだけ。いつも見ているワリには、「乗って通る」ことが難しい路線でした。今では、貨物が来るほうが余程珍しい、旅客中心の線路になってしまいましたが。さすがにこの時代になると、普通車にも冷房がついていますが、シールドではない「大目玉」というのは時代を感じさせます。ぼくなんかからすると、この時代の165系が一番なつかしいように思うのですが。チラッと見える初代ホンダ・シビックのテールも、70年代はじめらしいアイテムです。


坂下口の名前の元にもなった、駅脇の坂を登ってゆくと、続いて貨物内回りを走ってきたのは、167系の修学旅行列車です。旅客が二本続けてくるというのは、かなりラッキーですね。別にダイヤ見て撮影にいったワケではないので、これは強運です。種別表示の「修学旅行」もインパクトがあります。先ほどの165系同様「大目玉」ですが、冷房なし、金太郎型塗り分けと、この頃は両者の違いがくっきり出ています。続けて走ってくるところは、どことなく模型ファンの心をくすぐります。これから2年弱後、新幹線博多開業と共に、東京の修学旅行電車は消えてしまうのですから、かなり末期の姿を捉えているといえるでしょう。このときには、そんな自覚なく撮影したのですが。


山手線に乗るべくラチ内に入り、ホームで待っていると、貨物線の主役、旧型電気の牽く貨物列車がやってきました。EF13は八王子と新鶴見に全機が配属されており、山手貨物線の南半分では、特に良くお目にかかりました。新宿の貨物ヤードでは、まさしく「ヌシ」でした。今から思うと、もっと撮っておけば良かった、となるんでしょうが、当時はホントに日常的にごろごろお目にかかったので、撮りたい気持さえ起らなかった、というのがホンネでしょう。今は、広告ボードが立ち並んで、道路側は見えないのですが、こうやって見ると、原宿のこっち側は、本当に住宅街だったことが良くわかります。そういえば、本屋の方(当時の表口)で降りたとき、当時は駅周辺には食い物屋が全然なく、蕎麦屋すらなくて閉口したコトを思い出しました。コープオリンピアも、原宿駅の本屋も変っていないのですが、まるで違う街のようです。


(c)2004 FUJII Yoshihiko


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