都電25系統・30系統 岩本町〜須田町 -1968年5月5日-


前回の東京都電は、新宿周辺の12系統を取り上げましたが、今回は神田須田町を巡る25系統、30系統の登場です。実はこの写真もまた、撮影年月日を特定することができます。25系統は1968年9月29日の廃止ですから、少なくともこれよりは以前ということは明白です。またカメラは、走行中のクルマの中から撮影できるシャッタースピードが切れていますから、例の「キャノンデミ」ということがわかります。おまけに、この区間を自家用車で走る機会(ぼくがフロントシートに乗っている)というのは、「常設お座敷」や「Gゲージ」でおなじみの、例の九十九里浜の別荘への行き帰りに限られます。67年秋から68年にかけて千葉へ行ったのは、68年のゴールデンウィークと夏休みしかありません。ここで良く見ると、この日は旗日です。おまけに西行きの車線を走ってますので、千葉からの帰り際です。これらの条件を総合すると、撮影したのは5月5日と特定できます。1968年といえば、前年の1967年から廃止が始まり、将来的には消え去ることを運命付けられてしまったものの、まだまだ多くの路線が現役で活躍していた時代です。かなり写真としての質は悪いのですが、その頃の街の雰囲気を味わっていただけたらと思います。



最初は、岩本町の交差点から、山手線・京浜東北線のガードに向うあたりですれ違った、25系統錦糸掘車庫行きの1500型です。広角レンズの歪みで一段と強調されていますが、1500型は、大時代的な半流線型の正面に、Hゴムの大型方向幕、シールドビームのヘッドライトと改造された装備が付き、ちょっとゲテモノっぽいのですが、どちらかというと「三の線」のゲテぶりで愛嬌もあり、結構好きでした。前を行くクルマは、手前からトヨタ・パブリカ、丸テールの三菱コルト、駐車中のトヨタ・カローラという組み合わせ。それより、はるか先を行くバスの「後部非常口」にグッとくるヒトもいらっしゃるのではないでしょうか。。


前のカットでもチラリと見えている、ガード上を行く国鉄の車輛。近寄ってアップで撮ると、こうなりました。東北・上越新幹線建設のために廃止された、東京駅-上野駅間の連絡線上の急行型電車です。165系でしょうか。冷房のレの字もない、「すっきりとした」屋根の上が時代を感じさせます。よく見ると、前のカットと列車の位置が一緒です。引き上げ線として留置中なのでしょうか。余談ながら、路上の自動車の位置関係も、走っているにもかかわらずほとんど変化していないのも、時代がかったおおらかさを感じさせます。


中央線のガードにさしかかると、中央線快速の東京行きがやってきました。ぼくは、小学校が電車通学で、中央線を使っていたので、バーミリオンの101系は、なんともなつかしい限りです。もっとも実際には、緩行線の津田沼編成に組み込まれている戦前型のクモハ41、クハ55やクハ16といった車輛を選んで乗っていたりしたので、必ずしも快速専門ではなかったのですが。対向車線のクルマはいすゞベレット、その後ろのタクシーはトヨタ・クラウンでしょうか。ちなみにぼくが乗っている当時の自家用車も、いすゞベレットでした。


須田町交差点にさしかかり、中央通りの方を見ると、ここが始発の30系統、寺島町2丁目行きの6000型が停車中です。おまけに、6262なんていう「キリ番」ですね。位置関係としては、丁度電車の陰に「カワイモデル」がある、という感じです。30系統「須田町-寺島町2丁目」は、25系統よりは少し長生きし、この翌年、1969年10月26日に廃止されました。先頭に停まっているクルマは、「尻下がり」の愛称で親しまれた日産ブルーバード410型です。タクシーはクラウンとセドリックが半々という感じでしょうか。


靖国通りの須田町交差点西側は、25系統の折返点があります。25系統といえば、下町0メートル地帯の専用線でおなじみですが、「西荒川-日比谷公園」間で運行されていました。しかし、この写真を撮影したちょっと前の、1968年3月31日付けで内堀通りを通っていた区間が廃止・短縮され、「西荒川-須田町」間となり、この須田町折返点が終点となりました。1500型が機廻り線に入り、まさにこれからポイントを切りかえる、というところです。行き先はすでに「西荒川」になっていますが、ビューゲルはまだ前進位置で、切り替わってはいません。前を走る、ブルーバード410型のリアビューがよくわかります。協和銀行の場所には、いまでもりそな銀行がありますね。都心でも、ちょっと中心をずれると、ビルらしいビルはあまりない、そんな時代でした。


(c)2005 FUJII Yoshihiko


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