みやこへの道の行き帰り -1970年8月20日・21日-


昨年の3月11日、あの東日本大震災では直接の被害はなかったものの、押入れの中身が崩れ、積みなおすという程度の影響はありました。そんな作業の中から発掘された、40年以上前のネガ。先月まで「先史遺跡発掘シリーズ」として、主として小学生の頃のハーフ判のネガから、昭和の「鉄道風景」を掘り起こしてきましたが、そのネタもほぼ一年。今月からは、一応鉄道写真を撮るようになってからの、フルサイズのネガが題材です。時は、1970年の夏。すでにこのコーナーでも、「京の夏、保津峡の煙 -1970年8月20日-」で取りあげた、万博の家族旅行を抜け出し、山陰線を撮影に行ったとき、その前後で撮影したカットをお届けします。



この時は、大阪に泊っていましたので、「国電」で京都に向かいました。新大阪を出ると視野に飛び込んでくるのは、巨大な吹田操車場。そこにはまだ、関西線方面から城東貨物線経由で、蒸気機関車がやってきていました。さっとすれ違ったのは、そんな鷹取式集煙装置をつけた、関西っぽいD51です。すかさずシャッターを押しましたが、大逆光状態ですが、特徴は捉えられています。さて、何号機か比定するのが一大事。フォトショップで補正をかけまくったところ、番号の一桁目は下が丸いので、3、5、6、8、9のどれか、二桁目は底辺が直線なので2、三桁目は縦棒が通っているので1か4、というところまで読み取れました。この組合せを全部チェックしたところ、ラッキーにも可能性があるのは、当時竜華機関区に所属していた624号機のみ。624号機の写真をチェックしても、装備も一致します。ということで、この機関車は、竜華機関区のD51624号機と考証しました。


さらに京都に向かってゆくと、関西名物の吹田工場試運転列車を追い抜きました。吹田工場では、検査が終了して工場を出場した電車を、まとめて珍編成にして試運転するコトが多く、当時からネタとしてよく趣味誌に発表されていました。この日の編成も、東京方から、クモヤ90-モハ153-モハ152(当然非冷です)-クモヤ22(元モハ30)-クモユ141という顔合わせ。これ、旧型のクモヤは、Tc扱いなんでしょうね。こういうのは、少年ファンにとってもワクワクするものでした。それにしても、これはどこの駅なのでしょうか。かなり側線がありますね。京阪間の大きい駅ということでは、高槻とかなんでしょうか。この時代の駅は、東京圏でも考証に苦労する位ですから、関西となるとちょっとわかりません。わかる方は教えてください。ポイントは、チラッと見える「三井銀行」の支店だとおもいます。三井銀行は、関西圏ではすくないですから。


京都駅が近づくと、梅小路の機関区と貨物駅/ヤードが見えてきます。今回の目的が、山陰本線京都口の撮影ですから、梅小路機関区は、まだバリバリの現役。もちろん、東海道本線の要衝だった頃からすれば、随分陰が薄くなったとはいえ、博物館になってからとは違います。はるかにラウンドハウスが見えますが、その前方には巨大な給炭台と、ガントリークレーンが。蒸気ファンならぜひ模型で再現したい光景ですが、HOスケールだと、給炭台だけで、並みのレイアウト一つぶんぐらいのスペースをとってしまいます。日本では、宮崎機関区みたいに、ベルトコンベアで積載するぐらいの給炭台が限度ですね。手前側には、車扱の貨物が並んでいます。その中で目立つのは、トラ90000の群れ。北海道や九州ではよく見ましたが、京阪神の大都市のど真ん中でも、堂々と活躍していた記録です。当時は、林業のあるところ、間伐材があり、トラ90000も需要があったということなのでしょう。

さて、ここからは山陰線での撮影を終えた後、京都の街での撮影です。帰りは、今度は阪急京都線で帰ろうという作戦で、四条河原町にやってきました。当時は、まだ新京阪の名車デイ100も残っていましたし、特急用の2800系などは、東京では見られないタイプのユニークな車輛として、関東でも高い人気がありました。多分、ませたガキなので、京都でなんか喰って帰ろう、という算段だったと思いますが、まだちょっと時間があるので、京都の散歩がてら、帰りがけの駄賃にと京都市電を撮影したのでしょう。最初のカットは、河原町通りを行く、13系統四条河原町行きの1918号。よくみると、まもなく終点なので、ワンマン運転の運転手は、早々に行先表示を折り返し後の「たかの」にしてしまっています。京都といえば、道路の関係から小型タクシーのメッカでしたが、画面にもブルーバード510のタクシーがどちらの車線にも見えます。


続いて、先ほどの1918号を見返りカットで押えます。こちら側が、南を向いて四条河原町方面を診た構図になります。ワンマンなだけに、こちらの方向幕は、まだ「四条河原町」。乗務位置を転換してから、表示を変えるのでしょう。路上を見ると、こんどは台形の積木を重ねたような、独特のスタイルが目立つコロナのタクシーに取り囲まれています。道の向こう側には、日本勧業銀行の支店。まだ、第一勧業銀行にさえなっていなかった時代です。アーケードには、EXPO'70のシンポルマークを染め抜いた旗が、誇らしげにはためいています。まさにこのとき、「人類の進歩と調和」をスローガンに、未来を見せるというコンセプトで大阪万博が行われていたのです。しかし、40年経ってしまうと、この頃の日常のほうが、よほど貴重でなつかしいものとなっています。今だからいえることですが。


入れ替わりに、2系統の銀閣寺行き1651号がやってきました。2系統は西大路九条から京都駅という、ほとんど京都市内を8の字状に走り回る路線でしたが、その中間折り返し系統として、銀閣寺行きがありました。今はビル街になっている河原町通りも、まだまだ木造商店が並ぶ、地方都市の商店街のような様相を示していました。そんな中でも、「お寿司のひさご」は、今もこの場所に残っているようです。ちなみに、その隣で大きな看板が目立つ「洋菓子の春陽堂」は、この場所にはなくなってしまいましたが、洋菓子店をやめる代わりに、持ち帰り寿司チェーンの「茶月」となり、全国区に進出しています。四条河原町の交差点を左折してくる日野車市バスは、いかにも時代を感じさせます。仲良くブレーキランプを点灯させている後姿の二台は、左がマツダファミリア、右が初代トヨタカローラです。


最後のカットは、その次の日。東京に帰る日でしたが、家族で奈良に向かい、法隆寺を見学してから、夜新幹線で帰りました。そんな中、法隆寺の付近の踏切でちょうど出会った、関西線の普通列車です。先頭から、キハ35系で固めた編成。関西線の大阪口は、当時からそこそこ通勤通学客があり、首都圏、北九州圏とならんで、キハ35系が重用された地区ですが、他よりも純血編成が多かったように思います。千葉や北九州は、それこそ何でもありで編成していましたから。それもあるのですが、なんだかこの景色。外房線、内房線といった、房総半島の路線を思わせる光景ですね。まあ、先月までは、こういうのばっかりだったといわれればそうなのですが。電線も、セイタカアワダチソウも、ウルサいといえばウルサいのですが、ぼくらにとっては、なぜかなつかしさを呼び起こす風景でもあります。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


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