京の初夏、ひがな一日(その3) -1973年5月-


さて、40年前のある初夏の日の京都も、これで3回目。我ながら引っ張りますね。でも、まだ行きますよ。今回は、前回と同じ京福電鉄でも、今では「嵐電」として親しまれている、嵐山本線と北野線に乗車します。とにかく、半日で京都市内の電車に乗れるだけ乗ろうという、このプラン。学生鉄は、若さにモノをいわせて、体力の限り乗りまくるという「強行乗り」をやるものですが、それは今も昔も変わらないもの。今回は、北野線のターミナル、北野白梅町からスタートします。



叡電を、宝ヶ池で折り返し出町柳まで戻ったぼくらは、次の目的地、北野白梅町に向かいます。当然、今出川通りを走る市電に乗って移動したワケで、12系統か22系統の電車に乗ったものと思われますが、残念ながらそのカットはありません。この時のフィルムは、1本まるまるスキャンしましたので、全くシーケンス通り。宝ヶ池の次が、この北野白梅町のカットです。ホームでまず出会ったのは、モボ111形式のトップナンバー、モボ111号。1932年の田中車輛製ですから、この時すでに車令41年ということになります。ちょっと横を向いた連結器が、インタアーバンっぽくて、イナセですね。


続いて、ちょっと引きでとらえた、モボ111号と北野白梅町の駅構内。この日は、主要な写真機材はかばんと一緒に預けてしまい、35mmf2.8のレンズ1本で撮りまくっていました。当時の感覚では、一眼レフ用では35mmレンズは充分広角でした。広角単焦点の基本は、「もう一歩前に出る、もう一歩後ろへ引く」というメリハリのつけ方。そういう意味では、この連続2カットは、ガキながらちゃんと基本を押えていますね。駅構内の雰囲気も、良く伝わってきます。ティーンズのネエチャンがいますが、これはアンノンじゃなくて、ジモティーですね。70年代というより、20世紀前半のニオイを色濃く残す構内の看板と、京都らしい絶妙な対比を示しています。


一方、2線3面の北野白梅町。2番線にはモボ111号がいましたが、1番線にはモボ301形式のモボ302号が停車しています。帷子ノ辻行き次の発車は、こちらの方のようで、すでに乗客がいっぱい乗車しています。モボ301形式は、実は1971年に301・302の2輌が新製された車輛で、当時としては嵐電の最新鋭車輛です。その後、冷房改造までされました。確かに、アルミサッシの窓枠とか、シールドビーム2灯の前照灯とか、同時の「路面電車」の仕様とは一線を画す装備がついています。しかし、こうやってアップで写してみても、今一つ「新鋭」という感じがしないのはなぜでしょうかね。日本で最後の、ポール付き新製車輛という栄誉のなせるワザでしょうか。まあ、その分、こうやってなつかしい雰囲気を味わえるとも言えるのですが。


モボ302号で、北野白梅町を出発。ぼくたちは、当然のようにカブりつきを確保します。そして、お得意の「正面窓越し撮り」です。嵐電は左側運転台なので、ど真ん中の窓を確保できます。路面スタイルで真中の窓というのは、まさに黄金構図。すれ違うたびに、電車を撮影します。最初は、駅で待つ僚機モボ301号との交換です。場所の考証は、なかなか悩みます。ポイントは単線区間での交換駅であること、そして、駅名票を見ると、文字は読み取れませんが、駅名がが4文字であることが見て取れます。この4文字というのが決定的です。現在では北野線に4文字の駅名はありませんが、2007年の駅名変更まで、この区間には一つだけ存在しました。そんな条件から、撮影地は「竜安寺前」(現・龍安寺)と比定しました。


続いて、今度はモボ104号とすれ違います。それにしても、30kgレールの標準軌。なんとも強烈な「へろへろ」感です。サブロクでも、60kgや60Nが使われているのを見慣れた今となっては、なんかインドのブロードゲージのようにも見えてきます。それでも、路盤上にほとんど草が生えていないところには、まだまだマンコストが安く、設備投資に廻す資金の不足を、人海戦術のメンテナンスでなんとかフォローしていた、当時の「日本的経営」の、精神論に基づく涙ぐましい努力を見て取れます。さて、撮影地の考証ですが、これは大丈夫。駅前の新聞販売店が「鳴滝販売所」。複線であることや、カーブの具合もピッタリです。ということで撮影地は「鳴滝」で決まり。ちなみに、写真の「永井歯科」は、今では「相模歯科医院」となっています。


さて、帷子ノ辻で嵐山本線に乗換です。写真がないので、この車輛が何だかわかりませんが、モボ100系列のどれかであることは確かです。またもや、正面中央のカブりつきを確保。ホントに好きですね。嵐山本線は全線複線ですし、こうやって見ると路盤も北野線よりは厚く、戦前の関西民鉄としては標準的な、まさにインタアーバン規格ですね。そういえば、この頃は京福電鉄の親会社は、京阪ではなく阪神でした。すれ違う車輛は、モボ111形式のモボ115号、四条大宮行き。さて、この考証は悩みます。コレだけ山が迫っているのは、かなり嵐山に近いですし、先のほうで道路をアンダークロスしているところから(今でもアンダークロスはここしかない)、先方に見えている駅は「嵯峨駅前駅」(現・嵐電嵯峨)と比定しました。


こうやって、嵐山駅に降り立ちました。今は嵯峨野・嵐山といえば、京都でも有数の観光名所で、観光スポットもお客さんも多く、とても混雑しているイメージがありますが、この頃はまだ、かなり熱心な旅行者しか来ない、長閑なスポットでした。平日とはいえ、駅に電車がついてもこんな具合ですから、おして知るべし。まさに、地鉄のターミナルという感じです。木造・白壁の駅舎も、京都らしいいい味を出していますが、昭和戦前のポスターを思わせるような、余り上手とはいえない手描レタリングの駅名看板も、忘れてしまった味わいです。16番全盛の1960〜70年代のレイアウトでは、よく駅名票とか手書きで作りましたが、今ではみんなパソコン利用。こういうのを見ると、模型でも、手書きレタリングがあってもいいかな、という気がしてきます。さて、長い長い京都の一日、まだまだ続きます。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


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