南の庫から 宮崎機関区2 '73春 -1973年4月6日-


今回は、前回に続いて宮崎機関区の2回目。前回から1年ちょっとあと、1973年春の九州撮影旅行の際に撮影したシーンをお届けします。この時ぼくは、高校三年の春。受験とかもあったので、多少は自粛気味ということで(どこが)、なんと0泊5日の弾丸ツアーを決行しました。一日目は新幹線から山陽夜行乗継で北九州にはいり、二日目は田川線撮影。その夜、夜行で宮崎入りし、三日目は日豊本線。今度は上りの夜行で北九州へ向かい、四日目再び田川線と日田彦山線。その夜の山陽夜行から、五日目は新幹線で帰京という、北と南にしか蒸気機関車がいなくなったのを「活用」したスケジュールでした。予定行動なので、着替えとかほんとに最低限で、撮影器具だけ背負って列車に乗っていった、って感じです。まあ若気の至りというか、元気だったというか、なんともチカラ技なのですが、この時期蒸気機関車の撮影旅行にいった人は、多かれ少なかれこういう経験があると思います。中には、北海道周遊券の有効期間を、夜行だけ乗り継いで過ごした猛者もいますが・・・。まあ、ワイルドな70年代らしいエピソードでしょう。ということで、一年後の無煙化が見えてきた宮崎の様子です。



この日は、夜行から宮崎で降り立ち、朝の列車を大淀川でとらえ、昼から田野周辺での撮影に移動するというスケジュールでした。ということで、朝、昼、夜と、三回宮崎駅を利用し、その都度、機関区の写真を撮影しています。まずは、朝のショット。宮崎機関区のC6120号機と志布志機関区のC11149号機が、ターンテーブルを前に、仕業に備えて並んだカット。朝の宮崎は、陽射しが出てくると完全に逆光になってしまうので、なかなか撮影が難しく、かえって夜明け前になる冬のほうが写しやすいかもしれません。C6120号機は、この1年ちょっとでだいぶこなれて、九州のカマらしくなっています。こっちのスタイルのほうが、皆さんにも見慣れたいでたちということができるでしょう。


ここからは、一気に昼の撮影です。太陽の位置が上がって、ずいぶん活気がでてきました。給砂塔から砂を補給しつつ、各部の仕業点検を受けている機関車は、宮崎機関区のC57187号機。九州では比較的珍しい「3次型」です。3次型というと、裏縦貫・東北方面というイメージが強いのですが、このカマも新津に長く配属されていました。ボイラステップの手すりなど、モロに長野工場持ちの特色を残しています。このまま、宮崎電化による無煙化まで生き残りました。ちなみにこの半年後、新津時代の僚機であるC57186号機が人吉から宮崎に転属し(最後は旭川に転属)、8年ぶりの奇跡の再会を果たしたりします。


機関庫の脇から、チラリと顔を出した宮崎機関区のC6119号機。なんかこういうシーンはジオラマ的で、模型ファンにはアピールするものがあります。宮崎区のC61は、この当時すでにもてあまし気味で、この年の夏以降、検査切れのカマから順に休車・廃車され、転属してきたC57で置き換えられてゆきます。19号機も11月には廃車になってしまいましたが、その後国分市に保存されました。庫の中には、もう一輌C61が佇んでいる姿が見えますが、副灯への配管の具合から、これは18号機と思われます。蒸気時代の機関区の路盤は、アス殻やシンダなどでほとんど埋まりきってしまい、バラストはほとんど見えません。このアタりも、模型化する際には重要なポイントです。


宮崎駅構内の入換仕業に励む、大分機関区のC57115号機。C57115号機は、大分区のC57の大量配備がなくなってからも、予備車として一台残されていたカマとして知られていますが、この時期、73年の3月と4月の2ヶ月間だけ、宮崎区に貸し出されていました。その後、大分に戻るものの、休車になり、秋には廃車になってしまいます。確かに、別のカットを見ると、区名票が入っていません。そういう意味では、ワリと珍しいタイミングを捉えたカットといえそうです。このあと、無煙化したばかりの人吉区からの大量転入をはじめ、宮崎区ではカマの入れ替わりが頻繁に起こります。それにしても、あたり一面、煙、煙、煙。あのなつかしい、石炭の燃える臭いを思い出してしまいそうです。蒸気時代の機関区のある駅といえば、こういう様子だったのです。ノスタルジアはさることながら、健康にはどう考えてもよくなさそうですね。


最後に、貨車の間から顔をのぞかせる、南延岡機関区のD51923号機。よく見ると、LP405の副灯付きです。それもそのはず、半年前に秋田から転属してきたばかりのカマです。奥羽線からの転属は、この時期けっこう大量にあり、密閉キャブ付きのカマなど、九州では珍しい新顔が登場しています。蒸気最末期になると、新たに検査費用が発生することを防ぐため、検査期限の残っているカマを、無煙化した地区からまだ蒸気が残っている地区に転属させることが、頻繁に行われるようになりました。そういう場合は、最低限の装備変更で済ませるのがふつうで、「前任地」の特色を強く残したまま、運用につく例もよくみられました。すでに構内には、架線柱が建てられており、「終わり」が見えてきた感じがします。それより、手前にバッチリ写っている、ワム90000の妻板。模型派としては、なかなかこういうアップの写真はないので、ディティールの参考としてソソるモノがあります。



(c)2008 FUJII Yoshihiko


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