西武山口線のコッぺルと国分寺のE851 -1972年10月9日-


西武山口線は、西武遊園地〜ユネスコ村の3.6Km。もともとは、1950年に遊園地の遊戯施設として開業しましたが、1952年に正式に地方鉄道となり、西武鉄道の支線となりました。軌間は762mm。日本の軽便鉄道で標準的だった、「ニブロク(2ft.6in.)」ナローゲージでした。これが、あとあととんでもなくハッピーな結果を生んだのです。全線単線で途中駅はありませんが、列車交換のため、途中に中峰信号所と山口信号所のふたつの信号所が設置されていました。その後、同地区に西武球場が建設され、球場への輸送力増強の一環として新交通システム化されることとなり、1984年に廃止されました。開業以来、バッテリーロコの牽引する「おとぎ電車」が運行されていた同線の転機となったのが、1972年、折からの鉄道100年ブーム、SLブームにのり開始された、SLの運行です。まさにこれは、標準的な軽便鉄道の規格で作られていたからこそ可能だったワザ。無煙化された東京近郊で、生きた蒸気が手軽に見られる線区として、爆発的なブームになりました。当然、何度も撮影に、乗りに足を運びました。今回はその中でも、SLの運行を始めた年の秋、はじめて山口線に撮影に行ったときの記録です。写真を見れば、遠足の小学生がいることからもわかるように、これは平日です。西武山口線は、近いとはいえ、行けば一日仕事。前にも記したように、丸一日サボって撮影というのは、この頃はさすがにやらなかったので、コレが撮影できた日となると、この時期には、体育祭の振り替え休日しかありません。調べると、この年の10月は、1、8、15、22、29が日曜日ですが、体育の日周辺なので、体育祭は10月8日と推定できます。ということで、撮影日は、10月9日と比定しました。



最初に導入された蒸気機関車は、頸城鉄道で廃止後保存されていた、コッぺル製Cタンク蒸気機関車2号機です。当時の国鉄長野工場で整備の上借入し、運行を始めました。翌年には井笠鉄道から、同じくコッぺル製のBタンク、1号機が借入され、2輌体制になりましたが、この当時は2号機のみの運用でした。そののち1977年には、台湾の製糖会社で使われていた蒸気機関車、527号機と532号機に交代しますから、活躍は5年間ということになります。山口検車区で、給水・点検作業中の2号機の形式写真です。主要撮影地で、走行写真を一通り撮影の後、検車区で見学許可をもらい撮影しました。今回は、最初からドドーンと蒸気です(笑)。


運行開始当初は、おとぎ電車用の、今でいうトロッコ列車のような、オープンエアの客車を牽引していましたが、その年の9月に、元井笠鉄道の木造客車を借用。客車も含めて、本格的な「軽便列車」が登場したのです。そんなこんなで、ぼくもおもむろに撮影に行ったという次第。折から、けむりプロに代表される、「第一次軽便ブーム」の勃興期。その波にのり、西武山口線の人気もうなぎのぼりになりました。ということで、47年9月の全検表示もまぶしい、井笠の客車のリアビュー。これだけ取り出すと、軽便鉄道の現役時代のようですね。お客さんが、いかにも観光客然としていますが、西大寺鉄道じゃないけど、祭にあわせた観光輸送が、輸送のピークになっている軽便路線もあったワケだし。


第一次軽便ブームの特徴として、今につながる「味噌汁軽便」的なモノはもちろんとして、「メルヘン軽便」的なモノもかなり人気が高かったコトがあげられるでしょう。レーマンやエッゲルバーンといったドイツ製ナローモデルや、その後の乗工社ミニランドシリーズにも通じますが、おとぎ、ファンタジーが入った世界をナローで作ろう、という指向性です。実は、この系列のフリーのナロー蒸気の記事でも、一度TMSに掲載されていたりするのですが‥‥。ユネスコ村駅で、ちょっとそっち系のカットを狙ってみたりして。バックに発車を待つ2号機がいるのですが、これじゃアウトフォーカス過ぎてますね。でも、このお嬢さんも、いまや40歳前後でしょうか。時のたつのは、はやいものですね。


今回選んだのは、一渡り撮影が終わってからのカットを中心としているので、はや帰途にはいります。ユネスコ村から西武遊園地まで山口線に乗り、そのあと多摩湖線で国分寺に出て、そこから中央線で帰ろうという次第。そんなこんなで乗り込んだ、ユネスコ村駅でのおとぎ電車の車内。ちょうど、遠足の小学生たちと一緒になりました。相も変らぬ、Vサイン。見たところ、2年生か3年生ぐらいでしょうか。こいつらも、今や40代半ばということですね。この2カット、撮影した時期が、今ほど肖像にウルサくなく、子供は「喜んでカメラにポーズをとる」時代だったこともあり、勝手に使ってしまいましたが、心当たりの方がいらしたら、ぜひご連絡いただきたいと思います。


ユネスコ村駅を出発したバッテリーロコ越しにとらえた、山口観音踏切の赤ちゃんを抱いた家族連れ。今となっては、このバッテリーロコも過去の記憶なのですが、さすがにこの時は形式写真とかは撮っていません。この時、ぼくはまだ16歳。鉄道写真を気合入れて撮り始めてから3年弱なのですが、車輌や鉄道の記録というだけでなく、写真そのものにも興味があったので、だんだんと鉄道写真でも人物がらみのカットをよく撮るようになりました。これなんかも、それなりに凝って構図を作ったつもりなんでしょうね。確かにタイミングはいいのですが、狙ったのなら、もうちょっと長いタマを使ったほうがよかったですね。


乗っていた列車は、途中の信号所で蒸気牽引列車と交換します。そこで名残のもう一カット。山口信号所に進入する、ユネスコ村行き、2号機謙信号。機関助士の手には、ホルダーに入れたタブレットが握られています。そして、遠くには腕木式の場内信号機。そう、当時の山口線は、タブレット方式による閉塞が行われていたのです。まあ、国鉄でもローカル線ではこれが常識でしたから、時代的には驚くことではないのですが。それにしても、客車の塗りたてのバーミリオンがまぶしいですね。旧型だから、ヘロヘロのウェザリング。というワケでもないんですよね、現役で使われているということは。


多摩湖線は、今でもそうですが、萩山駅で運行系統が分かれており、一度乗り換えなくてはなりません。ここから国分寺までは、このモハ371のお世話になります。旧型電車ですから、濃い西武ファンならディティールの違いから番号を特定できるのでは、と思いますが、残念ながらぼくにはそこまでの情報はありません。国鉄のクモハ11の払い下げ車ですが、更新前に移籍したので、より古い姿を残している部分もおおく、完全半室の運転台や、ガイコツ型テールライトなど、なかなかマニア心をくすぐる要素が多いですね。


国分寺駅に到着したモハ371を、中央線のホームから見上げます。国立学園でしょうか、ランドセルをしょった制服の小学生がいることからも、この日が平日であることは明白です。しかしぼくの場合、西武というと、このモハ371やモハ351といった17m級国電をルーツとする車輌群が、いちばんイメージされます。そういう意味では、民鉄というより、準国鉄という雰囲気さえ感じられました。電車の脇に見える、京王閣競輪のゴールドカップレースの看板。これが、今回の年月日の考証では極めて役にたちました。


さてそこに登場したのは、当時の西武鉄道では、5000系レッドアローと並ぶ二枚看板の一つ、E851型の牽くセメント用タキ列車です。傾きだした秋の陽射しを浴びたファーストナンバー、851号機の雄姿をごらんください。ブローニー判のエクタクロームの上に、西日が順光で来ていますので、強力な描写ですね。かなり粗くスキャンしているのですが、この状態でも画質の違いが充分わかります。新製が1969年ですから、3年目。まだ、一度も全検を受けていない頃です。手入れも行き届いていて、「模型的な清々しさ」さえ感じられます。


秩父へ向かう貨物列車のしんがりをつとめる、西武ワフの後姿。1996年に西武線での貨物輸送が廃止され、今では貨物列車自体が過去の歴史となってしまいましたが、1976年に所沢の連絡線ができる前は、池袋および国分寺で、国鉄との貨物の受け渡しを行っていました。そういう意味では、国分寺にE851が顔を出していたのは、7年間。これはこれで、貴重な記録かもしれません。


(c)2007 FUJII Yoshihiko


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