男の背中 -ドラフトと煙の香りの想い出・その2-


続けて、「男の背中」シリーズ、第二弾。最初から、二回分ブッ続けてネタをキープしていたので、今回は準備が早い(笑)。とはいっても、テンダーのバックが客車内から写せるチャンスというのは、当時の旧型客車のデッキの暗さをご存知の方なら、朝晩では難しいこともご存知のはず。さらに、当時の撮影スケジュールは、日の出と同時に撮影地に入り、撮って撮って撮りまくって、日が暮れてから宿泊地や夜行列車の始発駅に移動するというパターンが多い。そんなワケで、探してみると、背中がちゃんと写っているコマというのは、けっこう少ないもの。ということで、二回シリーズになってしまいました。では、第二回にして、最終回。お楽しみください。



今回は、前回の続き。1971年4月3日の撮影からスタートしましょう。筑豊地区から、日豊本線の夜行で南九州へやってきた初日。朝、青井岳駅で降り立ち、周辺で撮影したのち、門石信号場へ移動しようと乗り込んだ列車は、鹿児島機関区のC5721号機の牽引。21号機は、戦前から九州一筋のカマであるだけでなく、戦後は鹿児島機関区から離れなかったカマなので、ある意味装備は極めて九州のC57らしいパターンになっています。SLブームが加熱する前に廃車になってしまいましたが、そのK-7デフは、同様に形式入りナンバープレートを前面に装備した僚機C5772号機に受け継がれ、鹿児島機関区のエースの座を引き継ぎました。青井岳駅での撮影です。


続いて日豊本線ですが、今度は同じ年の冬の撮影旅行でのカットです。撮影日は1971年12月16日。南の庫から 宮崎機関区'71冬 -1971年12月16日-で取り上げた日、宮崎付近と、高鍋付近で撮影したのち、夕方になり、宿泊地(青井岳荘)へと引き上げる列車に乗り込んだ宮崎駅で撮影したカットです。機関車は、吉松機関区のC5723号機。吉松区の流改C55の廃車とともに、この年の春に豊岡機関区から移動してきたカマです。北陸地区が長かったカマなので、装備が九州のカマとはけっこう違います。ナンバープレートも松任工場製と思われますが、21号機のものとは字体もバランスも違うのが目立ちます。


ここからは、北海道で撮影したカット。まず最初は、岩見沢第一機関区のC57144号機。1972年7月16日、苫小牧駅での撮影です。144号機は、蒸気最後の日まで生き残り、1976年3月まで車籍があったカマです。今でも岩見沢に保存されており、撮影したことのある方も多いのではないでしょうか。この位置からだと、北海道型の特徴は、炭庫の壁面に埋め込んだ、LP-403型前照灯ということになるのでしょうが、これはこれで目立ちますね。さらによく見ると、テンダーの給水蓋が開いたままではありませんか。まあ、それでも走行には困らないワケですが、北海道的なおおらかさといえましょうか。


続いて、その翌日。1972年7月17日に撮影した、岩見沢第一機関区のC57168号機。168号機は、この年の12月に廃車になってしまいましたが、デフの切り詰めも実施されておらず、岩見沢第一のC57の中では、比較的キレイなカマでした。それにしても、末期の岩見沢第一のC57というと、相対的に「二次形」が多かったイメージがありますが、そのほとんどは1960年代になってから、北海道に配置されたものです。それにしても、セキの1200t牽引といい、旅客の100km/h走行といい、室蘭本線は、その開拓地を思わせる景観同様、本土のルールとは違う世界だったことが思い起こされます。


最後は、背中ではありません。「顔」です。本務機の背中が見える客車のデッキは、後補機がいれば、当然「お顔」が拝めます。宇治平等院鳳凰堂には、ちょうど、阿弥陀さまのお顔が拝めるところに窓が開いていますが、まさにそんな感じで、デッキを通してみる蒸気機関車の「顔」は、力行中の蒸気機関車の正面が拝めるということも含め御利益満点といえます。後補機は、直方機関区のD6046号機。といえば、列車は「急行天草」。変則的に冷水峠を越す、数少ない優等列車でした。この日は、1971年4月7日。2度目の九州撮影旅行の最後の日。場所は、飯塚駅。停車中の車内からのバルブ撮影なので、微妙にぶれていますが、そのあたりはお許しを。


(c)2010 FUJII Yoshihiko


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