おたくの煩悩

第一章 鉄道車両


煩悩 その7
C 57
では、鉄道車両編からスタートしよう。最初はなににしようかと思ったが、やっぱりSL、それも一番好きなC57からはじめることにした。なんといっても、ぼくらの少年時代は、ちょうどSLが廃止される時期にあたっている。
この時代東京に育った少年なら、墨田川をこえて両国までいけば、もうSLが現役バリバリで働いていたことを覚えているだろう。もともと鉄道趣味というのは、なくなるものへの判官びいきというか、廃止されるものを、消えてしまう前に、見るなり、乗るなり、しておこうというモチベーションが含まれている。したがって、ぼくらの時代には、鉄道マニア=SLマニアといっても、過言ではなかった。
さて、そんな少年たちの好きな機種というと、C62派か、C57派かに二分さていた。ぼくはもちろんC57派であった。C62派は、どちらかというと一般のミーハーなファン、C57派は、もっとマニアックなファンだ。写真をとりにいっても、C62派は、いろいろな撮影名所をまんべんなくまわるプランをたて、C57派は、好きな線区だけを徹底的に攻めるプランをたてがちであった。
野球でいえば、C62派はもちろんONのファン、C57派はさしずめ高田選手のファンというところであろうか。
かくいうぼくも、特に九州線内のC57はこだわりがあり、短期的に所属したヤツは除くと、ほとんど何らかのカタチでカメラに収めている。その中でも一番好きなカマは、めずらしい5輌しかいない汽車会社製の一輌、C57 9号であった。

煩悩 その8
D 51
いわずとしれたD51、いわゆる「でごいち」だ。今は昔のこと、SLが全廃になる5年ほど前から、SLブームなるものが日本全国を席巻した。にわか鉄道マニアがこれほどまで世間にあふれ、鉄道趣味が社会的に認知された時期は、他になかっただろう。
しかし、それもSLの廃止とともに、すっかり忘れられてしまった。SLブームなどなかったかのようだ。それまでは「鉄道マニア」として白い目でみられ、それ以降は「鉄ちゃん」してあざけられている。しいていうなら、SLブーム以前は、男の子なら多少の鉄道マニアでも大目にみられていたのが、「鉄ちゃん」の時代になってからは、小中学生であっても「をたい」と思われる。ここが最大の影響であろう。
さて、このSLブームの代名詞となったのがD51だ。JR東日本がSLを復活させる際、もともとは交通博物館に保存のC57 135号を復活させようとしたが、社長の一声でD51の知名度を優先して後閑駅に保存されていたD51 498号を引っ張りだしてきたのは有名なハナシだ。
さて、「つりはフナにはじまり、フナにおわる」ではないが、これほどまでにポピュラリティーがあっても、D51は、マニアにとっても味わい深いものがある。それは、数が多いぶん、一輌ごとのバリエーションが大きいからだ。また、配置されていた地方によってもいろいろなバリエーションがある。
その中でも、ぼくが忘れられないのは新鶴見にいたD51 515号だ。番号の面白さもさることながら、ぼくが最初に撮影したSLなのであった。

煩悩 その9
9600
9600bpsの「ふつうのモデム」を、妙に通ぶって「くんろく」というヒトがいるが、それはさておき、この機関車は「きゅーろく」だ。SLブームのころには、この9600形式の愛称を「くんろく」と呼ぶヒトがいたが、あれはモグリだ。少なくとも旧国鉄の9600が配属されている機関区で、この機関車をさして「きゅーろく」と呼んでいるのはかなり聞いたが、「くんろく」と呼んでいるのは聞いたことがない。
じつは、この9600というのも好きな機関車だ。なんといってもバリエーションが多い。大正時代を通して生産されたため、そもそも仕様が何度か変わっている。その上に、生産期間中に、スクリュー・バッファー式連結器の自動連結器化、真空ブレーキの空気ブレーキ化という、鉄道史上に残る一大改革を体験している。この対応(ブレーキ装置を、外付けで改造した)は、各地区ごとに行なわれたため、そのやりかたが微妙に違っている。
さらには、そもそも装備が必要最低限しかついていないので、いろいろ使用目的にあわせて、大幅な改造が行なわれてきた。など、一台一台のディーティールをよくみてみると、その歴史がわかるくらい、違いが大きいのだ。これは模型屋さんからすると、随喜の涙だ。
さて、9600といえば石炭車が似合う。北海道のボギータイプの「セキ」型、九州の2軸タイプの「セラ」型、どちらもよく似合う。その中でも、墨絵のような風景の中を重連で、後補機でパワフルに活躍した、北九州の田川線での活躍が忘れられない。
もっとも、田川線では「セラ」型でも、積荷は石灰石だったのだが……。

煩悩 その10
クモハ11・クハ16
鉄道マニアは古いもの、珍しいものがが好きだ。これは、基本的な習性だ。この傾向は、電車でも変わらない。ぼくらが子供のころ一番わくわくした電車、それは17m級の国電(これも死語だが)であった。
通常の電車、JR山の手線で使われている205系であっても、東急新玉川線で使われている8500系であっても、一輌の長さは20mが標準だ。ちょっと短い感じがする地下鉄日比谷線の03系は、一輌の長さが18mだ。17mというのはそれより短い。地下鉄銀座線の車輌は長さ16m。しかし、これは車輌の断面積も小さい。国電の17m車は、ふつうの通勤電車と同じ断面積で、長さが17mだ。
大正時代から昭和のはじめにかけては、電車は17mが標準であった。この時代、すでに客車は20mのものが導入されていたワケなので、要は都市内の需要は、その程度だったということだろう。もっというと、東京市の区部の交通需要のほとんどが、単行運転の市電で賄われていたのだから。
で、ぼくらの子供のころになると、これらの17m車輌は地方のローカル線に転出し、東京ではたまに編成の中に混じっているぐらいであった。だから、偶然、これらの車輌の連結された編成がくると、喜び勇んで乗ったものだ。それにこの大きさ、じつに居心地がいいのだ。大きすぎず狭すぎず、なんとも気持ちがいい。幸福なひとときだ。
いまでも17m級のクモハ12型が、鶴見線の支線に2輌いるので、興味のあるヒトは乗ってみてはいかが。ただし、鉄ちゃんとまちがわれて人格を疑われても知らないよ。

煩悩 その11
オハ61
ぼくらにとっては、ローカル線といえばやはり客車、それもSL牽引の客車列車というのが、一番イメージにあっている。これは、ある世代以上のヒトたちにとっては異論のないところであろう。しかし、どの客車が旅情があるかということになると、ずいぶんヒトによって違うかもしれない。ぼくのばあい、いちばんローカル線らしい客車と感じるのは、オハ61だ。
オハ61は、いわゆる鋼体化改造客車だ。これは、大正時代に作られたナハ22000などの木造の客車の台枠や台車、部品などを利用して、新しい車体と組み合わせ、戦後の復興期の輸送需要増に対応して作られた、一連の車輌の代表といえる。
ではどこが旅情をそそるのか、それはまず座席だ。座席は、大正時代の座席の枠を利用して張り替えたものを使っている。だから、ちょっと小さくて、スハ43など、一般の客車と比べるとちょっと間隔が狭い。この点は、ちょっと困りモノだが、もともとローカル線なら、満員になることなどなく、ふつうはワンボックス一人で占有できるので、かえってこのぐらい狭いほうが、むかい側に足を乗せられてよかったりする。しかし、この座席をよくみると、スチール製の枠に、細かい模様が鋳込まれていて、いかにも大正ロマンという感じなのだ。これがいい。
それから、なにより大事なのがTR-11系の台車の乗り心地だ。スプリングで各車軸を独立に懸架しているそれ以降の台車と違い、この大正時代の台車は釣合梁という技術を使っているので、独特のゆったりした揺れがある。これこそ、ローカル線の乗りごこちといえるのではないだろうか。じつに懐かしい。

煩悩 その12
モハ90
モハ90といっても、今となっては相当な歴史派の鉄ちゃんでないとわからないかもしれないが、JRの現在につながる、国鉄の新性能電車(カルダン駆動のヤツ)の称号規定ができる前の、5桁の型番を準用していたころの形式で、その後101系となった電車だ。
ちなみに、初期の新性能電車は、すべて旧称号をもっており、たとえばこだま号で知られるクハ151は、クハ26と呼ばれていた。
さて、いまでは101系自体も廃車され、わずかに使われていた数年前には、若い鉄ちゃんからは撮影の対象にさえなっていたが、ぼくらにとっては、ほんとうにつまらない、興味のわかない電車であった。
ぼくが小学生の頃は、私立の学校に通っていたので、家のある中野から、学校のもより駅の四谷まで、電車で通っていた。下級生の頃には、緩行線にはまだ旧型電車が使われており、クハ55など、戦前派の車輌が混じった津田沼電車区所属の編成があり、それに乗るのが楽しみであった。しかし、これも101系に置き換えられてしまった上級生の頃になると、楽しみといえば、快速線の101系の中に混じっていた試作車輌、つまりこのモハ90の残党と出会うことであった。
これは、ベンチレータ、雨樋、運転室の仕切りなど、独特の仕様をもっており、なかなかをたく心をくすぐってくれた。デザイン的にも、量産車輌よりこっているのだ。101系は大嫌いだが、試作車輌だけは好き、これはいまだに抜けないサガだ。

煩悩 その13
EF64
中央線沿線で育ったぼくは、当時の男の子の常で、近くの線路まで散歩に行き、列車を眺めるのが日常であった。電車は頻繁にくるが、貨物列車はたまにしか来ない。そうすると、興味はしぜんと貨物列車にむく。そのような小さい頃は、中央線の貨物にはED16が使われていたはずだ。しかし、当時はそれほど鉄道に詳しくなかったので、さすがにそこまでは覚えていない。
鉄道に興味を持ち出した頃、貨物列車の主力機はEF10、EF11、EF15などどいう、デッキつきの旧型電気機関車になっていた。今でこそマニアの間でもファンの多い旧型電気だが、当時はそれこそ犬の糞だ。いまは埼京線や、成田エクスプレスの通り道となっているかつての山手貨物線など、こればかりであった。あまりにありふれているので、興味さえわかなかった。ちょうど、かつては給食でも嫌われていた鯨の立田揚げが、捕鯨禁止になると居酒屋の人気メニュー(それも高級だ)になり、みんな争って求めるようになったのとちょっと似ている。
さて、そういう状況の中で、これがくるとわくわくしたのが、当時配置になったばかりの新鋭機、EF64だ。茶色ではなく、ブルーとクリーム色の塗りわけもりりしく、当時のコトバでいえば、実に「かっこよかった」のだ。
それと、正面に重連運転に備えた貫通ドアがあるのも、デザイン的に気にいっていた。ふつう鉄道マニアは古いものほど好きだ。しかし、こと電気機関車については逆だったのだ。これは、電気機関車というモノ自体が「古いものではありえない」と感じていたからであろうか。謎だ。

煩悩 その14
DD13
昭和30年代初頭まで、東京でもヤードの入れ換えというのは蒸気機関車の天下だった。それも、明治時代に作られたタンクロコの2120(マニアの間では、明治時代の形式であるB6の呼びかたのほうで知られる)とか、本線では使われなくなった6760などの旧式のテンダーロコが使われていた。しかし、さすがにこれは知らない。どこかで見かけた可能性はあるのだが、興味を示したとしても、単に「汽車だ」としかいいようがない年頃だったのだからしかたない。
ぼくが小学生になる頃には、このような仕事は、ディーゼルスイッチャーの仕事となっていた。そして、池袋も、新宿も、渋谷も、どこもかしこもDD13であふれていた。
となると、ここまで読んでいただいたかたならもうおわかりと思うが、「DD13は嫌い」となってしまうのだ。とくに、ヘッドライトが一燈の初期型は嫌い、旧式の茶色に黄色い帯の塗装も大嫌いであった。
国鉄がJRとなり、貨物の入れ換え自体がなくなってしまった今となっては、スイッチャーという存在自体が貴重に見えるかもしれないが、これは生理的なものだし、鉄道関係はもう足を洗って20年になるので、この20年間時間が止まっているのだから、こりゃもうしょうがない。
ちなみに、ヘッドライトが2燈になり、塗装も朱色とグレーに白い帯が入った新型のほうなら、まだ許せるのだが、これは、当時東京都内の入替機を配置していた品川機関区は、新型が少なかったからだ。

煩悩 その15
キハ58
ぼくが子供の頃には、まだ中央線には特急がなかった。中央線に特急あずさが登場したのは、たしか43.10のダイヤ改正からだと思う。その頃は、特急は列車のエリート中のエリートで、特別な幹線にしか走らないものとされていた。そして、急行でもたいしたもので、準急などというのがあって、これでも充分ありがたかった。いまのJRの特急は、ベーシックな輸送の一環になってしまっているという面では、むかしの準急以下であるかもしれない。
さて、当時の中央線の華といえば、これは「急行アルプス」だ。新宿駅前の中古カメラ屋が「アルプス堂」というのは、ここからとったものであろう。そして、このアルプス号は、急行用気動車であるキハ58系で編成されていた。中央線自体は、急勾配区間という特殊な事情から、開通当時から電化していたが、長野県内の各ローカル線に直通する関係から、ディーゼルカーが使われていたのだ。
ここまでお膳立てが整えられれば、当然のように「擦り込み」がおこる。子供心にいちばんわくわくする列車、それがキハ58系であった。しかし、当時はキハ58系の模型は発売されておらず、とても残念であった。
その後、SLの撮影にいくようになると、当然のようにその線区ではキハ58が使われていたが、普段はあまりディーゼルカーの写真はとらなかったぼくも、擦り込みがきいてか、キハ58系の列車だけは撮影したものだ。

煩悩 その16
ワフ29500
旧国鉄末期から、貨物輸送の形態が大きく変わり、拠点間の大量輸送がその主要な役割となり、集荷と配送は、コンテナをトラックに積み替えて行なうという分担が定着した。しかし、それ以前、まだ道路事情が未整備のころは、国内の輸送の多くを貨物列車が担っていた。この時代には、各駅に貨物のホームがあり、各駅停車の貨物列車は、駅ごとに二軸貨車をつないだり、はずしたり、入れ換えをしながら輸送を行なった。
いまでこそ、貨物列車は運転士のみのワンマン運転だが、当時はこのように駅ごとに入れ換えを行なうなど作業があったため、必ず車掌が乗っており、列車の最後尾には車掌がのるための車掌車が連結されていた。
一輌まるごと車掌のスペースという純粋な車掌車(形式は「ヨ」だ)もあったが、ローカル線でよく使われていたのは、荷物スペースと車掌室をもつ「ワフ」型であった。これは、貨車一輌を使うほどではない小口の荷物を、駅ごとに積み下ししながら走るためだ。
さて、ワフ型には車掌室の乗り降り用にデッキのあるタイプと、ないタイプとある。古くはないタイプが主流だったが、作業の便から戦後はあるタイプが主流になった。そして、ぼくの子供のころには、ないタイプはごく少なくなっていた。そんななかで最後に残った旧タイプのワフが、このワフ29500だ。
しかし、最後に残った地域が限られていたため、写真でしかみたことがなかった。

(93/12)



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