天下の朝日新聞



朝日新聞1993年12月10日 1面 「天声人語」より引用

(前略)
数字の入っている日本語の表現というものは、なかなか難しい。井上ひさしさんの『ニホン語日記』という本には電車の駅が「いくつ目」かという数え方の話がとり上げられてる。
たとえば、東京駅の次に有楽町駅、その次に新橋駅がある。新橋駅は東京駅からいくつ目だろうか。井上さんが五十人ほどの人に尋ねたところ、全員が、言下に「二つ目だよ」と答えたそうだ。
しかし、たとえば人が何人か並んで写っている写真がある場合、特定の人をどう表現するか。左から三人目、などというのが普通である。そのときは基点になる左端の人を一人目と数えている。それなのに駅の場合はなぜ一つ目が東京駅でなく有楽町駅なのであろう……。
多くの人が新橋駅を二つ目と数える、その心理に分け入って井上さんが理由を考察しているが興味深い。本紙は「目」が「順位を示すことば」と考え、算定の基準を第一番の人や事物に置いている。東京駅が一つ目、というのが表記の基準である。
(後略)

まあ、井上ひさし氏というヒトも、その作品はさておき、米問題における発言や、締切を落としてもわるぶれない行動など、いろいろ個人的には共感できないことが多いのだが、この「ニホン語日記」という作品は読んでいないので、直接その内容についてのコメントは避けたい。

問題なのは、この一文を書いた朝日新聞の、それも相当エラそうな記者さんの認識のレベルである。昔は天声人語といえば、国語の試験などにも引用されたくらい、内容面でも表現面でも優れた文章が多かったと記憶している。それがこのていたらくだ。もともと、朝日新聞といえば、自然科学的発想や論理的思考に弱いことで定評がある。しかしそれにしても、これはちとヒドい。日本の小中学生は、数学のテストには強いが、論理的な応用問題に弱いというハナシがあったが、「日本の良識」を自称するメディアからしてこれなのだから、むべなるかなである。

こんなもの、マトモな「論理」がわかるヒトなら、なにも疑問には思わない。単に、モノを数える基準になる点をどこにおくかである。基準になる点は「ゼロ番目」である。しかし、この「ゼロ番目」はその特徴として、実際に存在する構成要素にも、その外側にもとることができる点があげられる。「左から一番目」の場合には、一番左の構成要素より左側に「左」という仮想上の「ゼロ番目」の基準になる点を考えている。だから「『左』から……」となる。東京駅から一番目というときには、東京駅が「ゼロ番目」の基準になる点と考えている。だから「『東京駅』から……」とになる。ただそれだけのハナシである。日本語の「から」という言葉の持っている中身を、論理に置き換えてみれば、すぐにわかるだろう。心理も何も関係ない。満と数えの関係と同じ。いたってロジカルな世界だ。

しかし、ちょっと考えてみるとこれは異様に滑稽なジョークになっているではないか。なぜなら、「朝日新聞」といえば、その論調が常に「良識」とかいう実態の不明確なものを基準にしていて、「自分のスタンス」がどこにあるのか、非常に見えにくい。世の中が保守的になれば、進歩的なフリをする。世の中が進歩的になれば、保守的なフリをする。要は、55年体制の野党と同じ。何にでも反対していれば知的で文化的に見えると未だに思っているようだ(一部の方々から朝日が左翼的と批判されるのは、この「反対主義」が、かつての左翼政党と似ているからであって、けっして朝日の思想が左翼的なワケではない。大手新聞の中で天皇家がいちばん好きなのは間違いなく朝日だ(まあ、「朝日の天皇」と呼ばれる一族がいるせいかもしれないが(笑))。

つまり、朝日新聞といえば、その論調が寄って立つ、基準になる点がいたって曖昧な「ジャーナリズム」である。そう考えると、この天声人語の文章は、奇しくも、みずから朝日の体質をさらけ出しているといえないでもない。なんたるバカ、とおもったが、これで腹を立てては同じ穴のむじなだ。バカはバカなりにアタマ隠して尻隠さず。思わずでるボロは、けっこう笑えるもの。ここは一つ、大いに笑い飛ばそうではないか。


(93/12)



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