もうひとつの2000年問題

(西暦と零の発見)






2000年問題といっても、コンピュータのそれではありません。2000年は20世紀の最後の年で、21世紀は2001年から始まるという問題のほうです。21世紀が近づいてきて、この勘違いもだいぶ解けてきましたが、まだ間違っている人もいると思います。これは難しい話ではなく、単に西暦の数え方に由来している問題です。

西暦の数え方の問題は、歳の満と数えの問題と同じです。単に「0からスタートか、1からスタートか」という点にかかってます。スタートが1である以上、そこから100年目は100ですね。スタートが0なら、そこから100年目は99です。よく、満と数えの関係を、0の概念と結びつける人がいますが、それは間違いです。このように、この違いは単に数える起点の問題であって、0の概念とは関係ない話です。

あるところを起点として、ものを数えるときに、0から数をふりますか?リンゴが10個あったとき、ふつう1〜10って番号ふりますよね。0〜9ってふる人は、相当「主張」のある人ですよね(笑)。これだけの話です。キリストの生誕(と思われていた)年を基準に、年を数えてゆく。そのときアタマになる年にふる数字は、人種を問わず、自然な感覚として、「1」でしょう。

ではここで、「0」の発見と、西暦の概念の確立がいつ頃だったか考えてみましょう。

西暦の概念の確立は、何をもって「確立」とするかが難しいのですが、けっこう新しいのです。今のようなカタチになったのは、せいぜい18世紀頃ですね。ルネッサンス期までは、旧約聖書の歴年史が金科玉条のごとく信じられていて、「アダムとイブから5000年の歴史」という軸が、何よりも先にありました。これが段々崩れてくるのに数百年かかったことになります。

それよりも先、中世末期の頃、十字軍とかによりイスラム圏の先進的な科学や人文学がもたらされると、どうも5000年の歴史では収まらない事実が色々でてくるようになりました。このあたりから、いわゆる年代論争が起こります。しかし、イスラム史と旧約聖書では、地域が近いだけに、共通する王や国が出てきますので、こじつければなんとか言いくるめられました。

で、この時代は同時に宗教革命の温床になった時代ですから、色々な教義、いろいろな宗派が出てくる。その中には、5000年でなく、もっと長い自然史的なスケールで、科学的にものを考え、神話でなく、人類史の部分だけを「世界史」としてとらえようという人達も現れました。そういうヒトたちの中には、キリストの誕生を原点として使おうという考えも(特にのちのプロテスタントにつながる、新教的な考えのヒト)生まれました

ですから、西暦の概念は萌芽としてはルネサンス前後からあったともいえます。しかし、彼らはまだ「異端」です。では、いつから公認の「西暦」ができたのでしょうか。それは、それまでの知識ではどうやってもこじつけが不可能であり、なおかつ、厳密、正確な歴史記述である、中国の歴史が知られるようになったことに由来します。

それまでのキリスト教界では、世界史と神話の区別が明確ではなく、一体のものとして考えられてきました。だが、それではどうにも解決できない中国の王朝史の正確な記述(彗星の出現等の天変地異も正確に記述されていた)に出会ってはじめて、聖書の中での「神話」と「歴史」をわけてとらえようという考えかたが生まれたのです。

ここで、イスラムやギリシャ、ローマ以来の歴史書が調べられましたが、正確に遡れるのは2500〜3000年が限度で、それ以前はあいまいでした。しかし、今で言う「紀元後」はかなり正確に年表を再現できました。そういうこともあって、その年表の軸の基準点としては、それまでも一部で使われていたキリスト生誕の年から数えるやり方が公認され、西暦が生まれます。これが17世紀の終わり頃。

そののち、数々の修正が加えられ、教会内から一般社会に広まり、年を表す方法として定着したのが18世紀ということです。もっというと、産業革命以前は、1年単位の農業生産社会ですから、庶民には今が何年かなんて関係なかったんですよね。そういう意味もあって、一般にまで普及したのはそれ以降ということができます。だから西暦の歴史はたかだか200年強なのです。

さて零の発見です。岩波新書に「零の発見」というのがあって、よく夏休みとかの読書感想文かなんかの課題図書になってたのを覚えていますか。そこでは、零の発見は、その本によれば、確かインドが起源とされていたと思います。確かにインドでは、「無いもの」「無いこと」に対してとく別な意味づけをしてきました。それは、仏教をはじめとする古代インドの哲学思想では、何もない無の状態を、もっとも純粋かつ価値ある状態として、理想化し、特別に意味のあるものとしてとらえていたからです。

色即是空の空とか、無念無想の悟りの状態とか、日本でもその考えかたは仏教経由で大きい影響を与えています。これに対し、西アジア起源の一神教系の哲学では、あるものにしか価値を見出さず、無の状態とは価値をもたない、とるに足らないものとしてしかとらえません。一方インドの哲学では、この世の本質はゼロ、すなわち「無」の状態であり、そこに邪念というか、世間のアカというか、いわゆる煩悩が積み重なった状態が、現実の我々が生きている世界と考えます。

こういう思想を産み出す人達ですから、何もない状態に対し、特別のステータスを与えるのは自然なことですし、数の概念においても、このクセが発揮されたことは容易に想像できます。

概念の発見ということはさておいて、数字としてゼロを表すものを最初に作ったということだと、これは多分中国でしょう。ヨーロッパに知られたものは、西アジア起源の数字ですが、漢字の数字のほうが歴史は古いと思います。


(97/01/07)



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