家の裏には、線路があった(先史遺跡発掘シリーズ その10) -1967年〜1974年-


すでに、この「記憶の中の鉄道風景」でも、鉄道趣味日記の「夢を大人買い」中でも、何度も触れているので、ご愛読されている方々には周知の事実とは思いますが、ぼくが2歳から就職するまで、子供時代を過ごしたのは、中央線の中野駅と東中野駅の真ん中あたり。桜のお立ち台として知られる切り通しが、電車区のほうの築堤にちょうど変わるところに、かつては第四種踏切があり、そこの南側のところでした。小学校の低学年の間に、踏み切りは歩道橋に変わりましたが、それは今でも残っています。明大中野の向かい側、といってもいいでしょう。とにかく、振り向けば中央線という感じで、子供の頃からひがな電車を見たりしたものです。このコーナーでも、「中央線 中野-東中野 -1968年-」「東京の雪 -1974年2月-」など、何度か取り上げています。今回は、ハーフ判の残りシリーズの最後として、そんな家の裏で写したカットの残りをまとめてお届けします。



最初の4カットは、ハーフ判の残りから。まずは、キハ58系の急行アルプスの見返りショットから。非冷で、乗客が思い思いに窓を開けているというのも、1960年代ならではの思い出です。列車自体はアルプスで間違いないですが、松本よりの増結車は、「天竜」だったり「かわぐち」することもあるので、この車輛が何かは断定はできません。ただし、車番から富士急車ではないことはわかります。おなじみの桜並木もまだまだ若木で、うっそうとした感じではありません。諸々の条件から、この一連のハーフ判の撮影は、1967年の初夏〜夏ではないかと推定していますが、これまた断定はできません。


件の歩道橋のところを通過する、中央線快速豊田行き。車輛は、内嵌め式の標識灯と、乗務陰湿仕切窓の大きさから、クモハ100の初期車とわかります。快速線の101系は、大窓の初期車が多く、かぶりつきの眺望が抜群なだけでなく、窓が低いので小さな子供でもかぶりつけるという、まさに「プアマンズ・スーパービュー」だったのもなつかしい限りです。そう言えば、Hゴムの形状も、初期車と後期車とで違い、ツルんとした初期車に対し、折り返しのついた後期車ということで、サイドビューでも見分けがつけられました。この歩道橋、ボロボロになって今もありますが、まだまだできたてで、コンクリート部もエッジがきっちり出ています。


ほぼ同じところから、こんどは緩行線の見返りショット。なんと「荻窪」行きです。荻窪、三鷹間の複々線化が69年4月ですので、それ以前の撮影ということがわかります。まあ、ハーフ判のカメラを使っていたのが、69年の秋までですから、どちらにしろそれ以前ということは確かです。編成番号が3桁ですから、津田沼電車区所属の車輛ですね。緩行線は101系後期車が中心でしたが、外嵌め式の標識灯(ちゃんと点灯してますね)、小型の仕切窓、そして折り返しのついた戸袋窓のHゴムと、後期車の外観上の特徴はきっちり捉えられています。さらにこの時期は、まだ木更津電化前ですので、そうでなくてもATS-Bのみ装備なので、車輛はクモハ101形式です。


続いて、歩道橋越しに撮影した、緩行線津田沼行き。これも、先頭は後期車のクモハ101です。バックに見える、ガードレールがセメント製の柵になり、一段低くなっているところに、第四種踏切がありました。この4カット、撮影時期の考証は難しいのですが、快晴でなくても走行写真が止まっていることから、カメラはキャノンデミと思われますので、67年春以降。先程の「荻窪行き」から69年3月以前。さらに68年夏に同じ場所で撮影したカットと比べると、明らかにテクニックが稚拙なので、67年の初夏〜夏の撮影と比定しました。どちらにしろ、昭和40年代はじめの中央線の記録ということは間違いありません。


さてここからは、35mmフル版での撮影です。のっけに堂々と登場するのは、かの有名な「遜色急行・かいじ」号です。115系にヘッドマークという、まさに遜色急行を象徴するようないでたち。方向幕にも、誇らしげに「急行」が表示されています。Web用の画像データではちょっとキツいかも知れませんが、原版を見るとサロ165が連結されていることがわかります。サロが入っていたのは、1970年10月から72年9月まで。これは、撮影時期を考証する上では、大いにプラスな情報です。遜色急行マニアにも、伝説の編成です。これも、リアルタイムでは引き伸ばしていないカットなので、スキャンして初めて気付いた類ですが、けっこう珍しいものを撮っていたんですね。


終点に向かってラストスパートする、緩行線中野行き。全開になった窓が、冷房のない時代を感じさせます。それにしても、今考えるとけっこう危険ですね。確かに、腕を窓から出して、引きちぎられる事故とか、年に一件ぐらい起きてたし。それも自己責任でリスクヘッジできる根性が、この頃の日本人にはまだあったということでしょう。まだまだ、開発途上国だったということですね。よく見ると、このカット、流してますよ。1/60ぐらいかな。でも、ちゃんと先頭車輛は止まってますよ。そんなこんなを含めて、この3カットは、1971年の夏の撮影と比定しました。写真テクニック的に見ても、そのあたりのモノではないかと思います。


今度もやってきた、キハ58系の急行アルプス。今度は、冷改されてますし、キハ65が入ってますよ。よく見ると、タブレットキャッチャーもなくなってますよ。前のカットから4年、国鉄の近代化も随分進んでいます。このアタりの時期のキハ58系が、やはり想い出の中では、一番印象的です。蒸気機関車の撮影旅行で、さんざん乗ったし、ついでにいっぱい撮ったし、ということなのでしょうが。模型でも一番の売れ筋はこの仕様です。調べてみると、松本よりからキハ58-キハ65となっているのは、下りではアルプス7号-こまがね3号で、先頭の2輌は「こまがね号」天竜峡行きです。続いてアルプス号の先頭は、キハ28-キロ58-キロ58-キハ28と、キロ58が専用の冷房電源を備えたキハ28を召使いのごとく従えた特殊な編成となっています。


おなじみのお立ち台を行く、183系の俗に言う「八王子わかしお」号。フィルムの端っこの試し撮りなので、ちょっと光がカブっちゃってますが、大目に見てください。わかしお号は、総武快速線が開通した1972年7月に誕生した外房線のエル特急で、東京-安房鴨川間の運転でしたが、一往復のみ、八王子発着の運用がありました。その1本しかない上り列車です。写真の状態はあまりよくないのですが、それでも新製直後のピカピカの新車であることがわかります。ということで、撮影は1972年7月の運転開始直後と考えて間違いありません。さらに、一本しかない列車を偶然撮るということは考えられないので、夏休みの撮影旅行に備えて、カメラにフィルムを入れたときに撮影したものでしょう。


最後は、残り雪の中を行く快速線上り特別快速電車。これは多分「東京の雪 -1974年2月-」の翌日に撮影したカットと思われます、山手通りの拡幅によって、今は一つの橋になってしまいましたが、かつて中央線にかかる陸橋である桜山橋は、山手通りの太い橋と、その脇の細い橋と、2本の橋が並んでかかっていました。こうやってみると、切り通しの上は、柵があるだけで何もなく、見晴らし抜群です。今は、厳重な金網に覆われ、撮影にも苦労するような感じですが、昔はどこでもこんなものでした。これで事故が多かったわけではないですし、まあ、飛込み自殺は多かったかもしれませんが、今ほど現場検証が厳しくなかったので、遺体をどければすぐ運転再開でしたから、大して障害にならなかったのでしょう。おおらかな時代でした。


さらにおまけで。先日、実家の裏へ行く機会があったので、例の歩道橋の上からちょっと撮影してみました。多くは変わってしまったが、中には変わらないものもあります。小さい子連れの母親が、歩道橋の上から電車に手を振る姿などは、相変わらずといえるでしょう。この時は、ミラーレスデジイチのオリンパスペンに、LUMIXのμ3/4の14mmという、およそ鉄道写真には向かないセッティング。おまけに金網をクリアすべく、手を高く差し上げて、ノーファインダーで撮らざるを得なかったので、鉄道写真としては問題が多いのだが、最近の「その場」の雰囲気はわかっていただけるのでは。有名なお立ち台にはなっているものの、写しにくい環境になったことは間違いない。ハーフ判シリーズの締めということで、オリンパス・ペンに始まり、オリンパス・ペンで終わるという感じで。



(c)2012 FUJII Yoshihiko


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる
inserted by FC2 system